99:パラダイス・ハビット
地鳴りの余韻は赤黒い空にも響いていた。流れていく雲は薄く影に染まり、赤くなった空を際立たせている。小高い丘から一望できる風景を眺め、少年はつまらなそうに立っていた。
「いいタイミングでしたよ、桐谷くん。彼らとのおしゃべりも飽きてきたところでした」
囚われていたはずの男は飄々とした様子でやってくる。それに少年、桐谷は小さくため息をついた。
「この実験は本日行うという予定だったが?」
「捕まってしまったのは、まあ僕の油断からです。素直に謝りますとも。ごめんなさい」
悪びれる様子もなく、高橋京極は軽く頭を下げた。それを一瞥したあと、桐谷は赤い空に目を戻した。高橋も同じく、異様となった空を仰いだ。
「無事起動しましたね。これで『異界化』には問題ないでしょう」
「あとは『住民』どもだ。こちらも問題なく起動は確認できた。そして生者に牙を向けているが……」
「ふむ。『住民』のサンプルはいくつ持ち込んだのです?」
「七つだ。どれも飢えている。連中の排除にはちょうどいい」
ドン、と野太く荒い音が丘の下から鳴り響いた。同時に声……と言っていいのだろうか、怒声、笑い声、威嚇する唸り、咆哮が四方から湧いてとどろく。
「戦闘が始まりましたね。僕はここで高みの見物を……」
腰を下ろそうとした高橋に、無言で一冊のノートが突きつけられる。
「……これは」
「記録だ。一号から四号は俺が見る。貴様は五号から七号を観察しろ」
「真面目ですねえ……」
□□□
似ている。そうつぶやいたのは切子だった。ナイフを両手に構え、突っ込んでくる異形たちをにらみながら、こちらも最善の策を考えていた。
「似てるって……何に!」
手に太刀を呼びだした清十郎が言う。
「話はしただろう、新山の翁が変貌した姿に……だ」
「あの「鬼」を食うだのなんだの言ってた、あれか……! じゃあこいつらも!?」
「おそらく。しかしこいつら……「鬼」だけじゃなく、私たち人間も餌に入ってる」
乾いた土の地面にめり込むほどの足は、速いとは言い切れないものの、迫る姿に鬼気としたものを放っていた。
肌を刺すように響く、異常なほどの恐怖。食物連鎖の上にいる者ならば本来感じることのない、命の危機。それを本能が感じ取っていた。
大きく開き、唾液をまき散らしながら迫る異形の口と歯を見れば、それにたやすく頭蓋骨をかみ砕かれ、四肢を引きちぎられ、内臓を咀嚼し、肉塊となる最後は簡単に想像……いや、連想できた。
人間がステーキをほおばるように。刺身を口にするように。この異形たちはただ「食事」を行うだけなのだ。しかしそれがどれほど恐ろしく、絶望的なことか。……被食者にとっては、どれだけの恐怖か。
「そうか……人間も食うのだとしたら……食料だというのなら」
震えて動けないでいる蝶子の前に立つ神木は、苦々しく吐き捨てるように言った。
「人が人を食うのなら……もうそれは、人間じゃない。人間のままではいられないんだ」
異形は四方から土煙をあげて迫りくる。数は七体。『黛書房』の正面には、三体の異形が並んで走っていた。
「……っ」
巳影は拳にまとわせた火柱をさらに強く握るよう、手に力を込めた。
(……なんだ、この感覚……!)
現れた異形たちを見た瞬間から、心がざわつき始めていた。最初は未知の存在に対する恐怖心からかと思っていたが、何かが違う。確かに恐ろしいと思い、現に足は震えている。
しかしそれ以上に。長く伸びた腕を、大きく開き、こちらを飲み込もうとする口を、肉を断ち嚙み切るための大きな歯を目にしたその時。
胸の中にこびりつき、離れない……ドロドロとした嫌悪感が込みあがり、神経を逆なでするかのような声がひどく……癪に障った。
「お、おい!」
清十郎が怒鳴るように放った静止の声を、背中で聞く。身を低く、しかし足は全速力で。巳影は自分でもよくわからない衝動に貫かれ、異形のうちの一体に踊りかかっていた。
走った勢いを殺すことなく、異形の前で地を蹴り膝を、開きっぱなしの口に……前歯を狙って突き出す。
異形がわずかにのけぞった。が、その大きな頭部が動く前に、長く伸びた腕が巳影の頭上から振り下ろされる。無造作に、まるでコバエでも追い払うかのような乱暴で、しかし速度のある一撃は、巳影を簡単に地面へとたたきつけた。一瞬息が詰まり、呼吸が喉の奥で詰まってしまう。
しかし態勢を立て直す前……起き上がり様でさえ、異形たちは隙を見逃さなかった。隣を走っていた異形が巳影の体を蹴り上げ、赤い空に高く吹き飛ばした。巳影はさらに肺を圧迫され、浮かびながらも激しくむせる。
下には、大きく口を開いた異形が三体が、巳影の落下を待っていた。大きな歯を打ち鳴らし、唾液は口内からこぼれ出ている。
そのうちの一体の頭が、青く輝く落雷に、横から貫かれた。稲光を口の中に残し、ひどく臭う腐臭を吐きだして、一体の異形が倒れる。
異形の注意が巳影から……横やりを入れた清十郎へと向けられる。巳影は落ちていく視界の端で、また別の光が走った瞬間を見た。
土くれとなった地面を滑り、足からの放電をそのままに接近した切子は、逆手に握ったナイフを一体の異形の首へとえぐるような軌道で放った。
ナイフは異形の生白い肌を裂き、首から大量の血を吐かせた。同時に立ち込める腐臭は、まるで魚が腐ったかのような生臭さをもっていた。
大量の出血を首に持ちながら、斬られた異形の口は切子へと向けられる。だらりと下がった腕を持ち上げ、捕えようと突進するも、真後ろから……落下ざまに巳影が放った拳が頭部へと叩き込まれてその巨躯が膝をつく。
一瞬下を向いた異形の頭部に、切子は全体重をかけてナイフを振り下ろし、肌を裂き肉を割ったさらにその奥へと切っ先を突き付けた。同時に、切子は裂帛の気合を吐き、体中に走る電流をナイフに通して異形の頭部を内側から焼きつくす。
黒く焦げた煙を吐き出す異形は、ゆっくりと倒れて泥のような血だまりを作り、動く気配を消した。
「うかつだぞ、馬鹿!」
清十郎が乱暴に巳影を引き起こす。巳影はせき込みながら涙目で「す、すみません……」とこぼした。
「残り四体……!」
切子は返り血を浴びながらもナイフを引き抜き、走りだそうと足に力を籠めようとした。
しかし。『黛書房』を挟む形で迫っていた異形たちが立ち止まり、一斉同時に開きっぱなしの大きな口をこちらへと向けて走り出した。底の見えない大口からは、笑い声や怒声、威嚇などの声が交じり合って、赤い空の下に響き渡る。
「次は不意打ちを狙えねえ、気ぃ引き締めろ!」
次の太刀を手に顕現させて叫ぶ清十郎には、余裕の気配は一切感じられなかった。むしろ焦燥と恐怖にあおられ、表情は強くこわばっている。切子もまた同じく、険しい目を作りながら次の行動へと移っていく。
「く……くそ!」
巳影が持ち直し、地面を駆けたころには、異形たちの群れはすぐそこまで迫っていた。




