98:満たされない渇望
「高橋、てめえ! 何しやがった!」
清十郎が詰め寄ろうとするものの、強く揺れる地面のせいでバランスを崩しかけ、膝をついてしまう。
「じ、地震!?」
巳影もまた自分が転ばないように、壁に張り付くことで精一杯だった。
靴底から腹部へ貫くような振動は、原始的な恐怖を精神に植え付けてくる。地面は縦に揺れ、横に流れ、まるで地球そのものが遠心分離機にでもかけられたかのような動きだった。
鼓膜を削るようにうなる地響きもまた、冷静さをかき乱していく。その轟音が満ちる中でがちん、と鈍い音が弾けた。その音に振り返ると、時計盤の上には、拘束具をほどいて立つ高橋の姿があった。
「僕は持ち場に戻りますね。あなたたちとのおしゃべり、楽しかったですよ」
強い振動などに囚われない動きで、高橋は大きな歩幅で飛ぶように巳影たちの側をすり抜けて地下室から脱出した。
「高橋くん!」
蝶子は声を上げて追おうとするものの、倒れないよう地面に伏せたまま動けなかった。
「あの野郎……抜け出そうと思えばいつでもできたってのか!」
馬鹿にしやがってと、清十郎は力任せに床へと八つ当たりの拳を落とした。
「お、追わないと……!」
わずかに揺れが収まってきた。走って移動できる、と判断した巳影は地響きに足を取られながらも階段を上がり、『黛書房』の一階へと出る。
「飛八くん、無事か!」
レジ付近にいた神木もまた、揺れのために動けず手すりにしがみついていた。
「俺は大丈夫ですが、高橋京極が逃げて……!」
「今柊さんが追っていった! しかしこの地震は……」
耳の底に残るような、大地の変動を思わせる音が、次第に遠のいていき、鳴りやんでいく。振動もまた、徐々に小さなものへと規模を収めていった。木造の『黛書房』はギシギシと軋む音をあげつつも、崩れる気配もなく耐えきったようだった。
「高橋が何か結界のようなものを張った瞬間に、今の揺れが……」
精神的にも落ち着いてきた巳影は、同じく立ち直った神木へ説明する。念のため、まだ二人は近くの柱や手すりを握り、次の余震に備えていた。
「結界か……確かに何か、空気が変わったような……」
地鳴りや轟音などで慣れた耳に、今度は鼓膜が痛くなるほどの静寂が押し寄せてきた。
不自然なほどの静けさに、巳影と神木は互いに目を合わせる。
「……表に出てみよう」
巳影は無言でうなずき、固唾をのんで開きっぱなしになっていたドアをくぐり、外へと出る。
ふと、鼻腔に張り付くような臭いが漂っていることに気づいた。それはぬるりと粘り気を持った……腐臭と血の臭いが混じったような悪臭だった。
「……なんだ、これは……」
先に出ていた神木は空を仰いでいる。駆け寄って同じく空を見た巳影は、言葉をなくした。
夜空が、赤い。例えるのなら、その赤は血の色そのものだった。ただし鮮血とは違う、濁りきった赤黒い、よどみを含んだ色が空一面に広がっていた。
巳影は混乱しつつある頭を何とか保ち、周囲にも変化は見られないかと、暗闇に目を凝らした。
「……?」
周囲には田園が広がる風景がある、はずだった。しかしよく見ればどの田んぼにも水はなく、枯草や雑草などが伸び、土は固く乾いている。あぜ道もほとんどが崩壊しており、見知った田舎情緒ある風情とは程遠い景色に変わり果てていた。
車道となっている道路は舗装された整地ではなく、やはり枯れてひび割れている。その上を切子が走り、こちらへと戻ってきた。
「すみません、取り逃がしました。……しかし、この様子は一体……」
巳影は高橋が結界のようなものを張ったことを切子に伝えた。それを聞いて、切子は眉をしかめて空を仰ぎ見る。
「結界の中、と言われればその感覚はあるけど……何か、私が知る結界術とは根本的に違う気がする……」
「根本的?」
空から目を離し、巳影へと向かいなおった切子はこくりとうなずいた。
「うまくは説明できないけど……結界には大きく分けて二種類。守るためのものと、外部を遮断するものと、その二つに分かれるんだ。これはどちらかと言うと、遮断の気配が……」
切子は首をひねっている。違和感に気づきつつも、それをうまく言語化できずにいるようだった。話している間に、書房から清十郎と蝶子が遅れて出てきた。そして自分たちと同じよう、空の異変に気付き足を止める。
「……なんだよ、この世の終わりみてえな景色は」
「それにこの臭い、どこから……?」
狼狽する清十郎に、顔をしかめる蝶子はこちらへと合流する。
「とりあえず……どうする。もう高橋は姿を消しちまったんだろ」
清十郎の言葉に切子がうなずいた。
「私たちも早く結界内から脱出した方がいいと思う。何があるかわからないし、出られる保証もないけど……まずは周囲を調べてから……」
切子が言葉を途切れさせ、その場にいる全員がとっさに振り向いた。枯れた田んぼや崩れたあぜ道の上に、何かがいる。
人影、に見えた。しかし、薄暗い視野の中で目を凝らして見ても、なぜか人影の姿は鮮明にならず、黒くくすんだ暗闇は張り付いたままだった。
そんな人影は、一つではなかった。
右に、左に。いつの間に現れたのか……人影は何も言葉を発することなく佇み、視線だけをこちらに感じさせていた。だがその視線は、ただ見られているというだけにとどまらず、狙いを定められているような、そんな寒気を覚えるものだった。
例えるのならば、獲物を捕捉した肉食獣の目。視線の数は、人影の数とともにぽつりぽつりと増えていく。巳影たちはその異様さに言葉を発することもできずにいた。
その時、異様な景色に深く重い音が鳴り響いた。それは、鐘の音だった。
「……まさか」
我知らずと声を漏らしたのは、蝶子だった。肩に乗っていたチクタクが、全身をこわばらせて「危険、危険」と繰り返す。
人影に張り付いていた闇が、鐘の音が響くことによりはがれていく。
肩の骨が膨らみ、二の腕は丸太のような大きさに変化した。筋肉が膨張し、肘から先は地面に着くほどの長さへと変わっていた。
口元が耳元まで裂かれるように開いていった。ぞろりとそろった歯がむき出しになる。その歯一つ一つが、大人の手のひらほどの大きさになっていく。
口のパーツだけが拡大していき、目はこめかみ付近の横に流れ、鼻は額がある位置まで押しやられた。
腹部が張り裂けるように膨張していく。不自然に膨らむ腹の下、足は腕と同じく一回りも二回りも筋肉が膨張していき、むき出しになった足には鋭い爪が生え、地面を砕きながら立っていた。
異形の者たちが血のような空を仰ぎ、大きな口から笑い声のような音を吐きだした。異形の一つ、また一つがその笑い声に声を合わせ、歯を震わせて口角をつり上げていく。
ケタケタと鳴り響いていたその笑い声が、一斉にピタリと止まった。上を向いていた頭部がゆっくりとさがり、どの異形も動けずにいた巳影たちへと顔を向けた。
巳影たちが動けたのは、その異形たちが口を広げて突進してきた時だった。
「く……来るぞ、全員構えろ!」
清十郎の絞りだした声に我へと返った切子、巳影はとっさにそれぞれの武装を身に着ける。神木は蝶子の前に出て手のひらから霊気の糸を発現させた。
しかし。体が今覚えた、被食者が捕食者相手に味わう寒気と恐怖が、全員の体を強くこわばらせていた。




