95:闇をひも解く
地下の時計盤の上につるされる形で拘束された高橋は、夕暮れが過ぎ、夜となった今でも瞳を開かず、微動だにしていなかった。
時計盤の前に座り込み、パンをかじる切子は高橋の変化を一瞬でも見逃すまいと、用心深く見据えていた。
「様子はどう?」
扉が開き、蝶子が顔を出した。切子は視線を高橋に向けたまま言う。
「まだ眠ってるみたいですけど、そろそろ起きてもいいはずなのですが」
「……。切子ちゃん、昼からずっと警備についてるから、休むか交代するかした方がいいよ。大場くんも上でスタンバイしてるんだし」
蝶子の気遣う言葉に切子はしばし考えた後、小さくうなずいた。
「そうですね。では大場さんと交代してきます」
一分以内には交代して戻ります、と残して切子は地下室から出て行った。蝶子は高橋の前に立つと「一分間だよ」とつぶやく。
つるされた男の瞳が、片方だけ開かれる。
「おや、狸寝入りはばれてましたか」
「時間が惜しいわ。『茨の会』について、可能な限りのことを教えて」
「時間内ではすべてお話できません。あれやこれやと話もややこしくなりますので」
蝶子は唇に指先を当て、一瞬だけの間を置いた後に口を開く。
「じゃあ、天宮一式について教えて。彼は……何者なの」
高橋の口元から薄笑みが消える。
「……『月輝ル夜ノ部隊』……聞き覚えは?」
しんと静まり返る地下室に、蝶子が息をのんだ音が大きく響く。
「彼は、その残党です。そう、あなたの曾祖父である黛時啓と同じ部隊に所属していた……そして、『荊冠計画』の立案者です」
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「ははは、高橋が捕獲されたと」
「わ、笑いごとですか……?」
町を見渡せる高台にいると聞き、事の次第を伝えに言った来間堂助は苦笑いを浮かべることしかできなかった。
現代のラフな格好をした天宮一式は、手に持ったジャンクフードをかじりながら、高台のベンチに座り町明かりを眺めている。
「笑うも何も。絵面を想像しただけで笑えるものだ」
「シュールってことですか?……それで、どうします」
「ん? どう、とは」
邪気のない目を向けられ、来間は胃が痛くなるのを感じた。
「高橋さんの救出ですよ。プランを練らないと……こちらの情報を引き出されれば、今後の動きにも影響が……」
「構うことはない。自力で帰ってくるさ」
ジャンクフードの残りを口の中に入れてしまうと、天宮はベンチからゆっくりと立ち上がった。その横顔には、誰かを案じているような気配はなかった。
「それは……信頼故、ですか?」
きっぱりと言い切れるだけのものが、この二人の間にはあるのだろうか。
「さあ、どうかな。だが奴がただで捕まって終わるわけがない。何を置き土産していくか……考えるだけでにやけてくるものだ」
信頼……とはまた違う、どこからくる確信か。しかし考えても、彼らと出会って日の浅い来間には想像もできなかった。来間はため息をついて肩をすくめた。心配するだけ馬鹿らしい、ということのようだ。
「……高橋さん当人もそうですが、あなたも掴みどころのない人ですね」
「ふふ、俺はあいつほどひねくれてはいないぞ?」
皮肉を込めて言ったつもりの来間であったが、天宮にはそれすら鼻で笑われ、軽くあしらわれた。度量があるというか、大きな器の持ち主、というべきか。組織のトップは楽天家である方がいい、とどこかで見聞きしたものを思い出す。
「それに連中が高橋からどんな情報を得たとしても、現状は変えられん」
設置されたごみ箱にジャンクフードの包みを捨て、鼻歌交じりに歩き出す。来間はそれを追い、「どういう意味です」と天宮の背中に問いかけた。
「今更聞いて、知っても。何もかもが手遅れだからだ」
肩越しに振り返り言う天宮は、無邪気な笑みを浮かべていた。それに、来間はぼそりとつぶやく。
「……『荊冠計画』が、ですか」
「そうだ。もう計画成功の条件はそろいつつある。あいつが今生きていれば、どんな顔をしたものか」
「あいつ?」
天宮は昔を懐かしむような目を夜空に向け、微笑んだ。
「ああ。名は黛時啓……かつての相棒であり、共犯者だ」
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黛の家系なら、その名を自ら口にすることはない。いや、この町……村、であったころならば、住民誰もが口を閉ざす。
黛時啓……誰もが畏怖の念を覚える者だ。あの新山家の人間でさえ、別格としているほどに。
書房の給湯室でお湯を沸かしながら、蝶子はコンロの前でぼう、と佇んでいた。正確に言えば、茫然自失の一歩手前である。火にかけているやかんからは、湯気が上りつつあった。
「天宮一式……」
つぶやいてみれば、口の中にざらりとした濁りのようなものが残った。口にしただけで、舌が呪われでもしたかのように。
「あの……お湯、沸いてますよ」
ぼそっと聞こえた少年の声に、蝶子ははたりと我に返った。目の前のやかんがけたたましい音を上げている。慌ててコンロの火を消した蝶子は、はぁと大きなため息をついた。
「あ、ありがとう飛八くん……でもどうしてここへ?」
給湯室の前に立っていた巳影を見て、蝶子は小首をかしげた。
「状況が気になったので……つい」
言う巳影は、どこかそわそわとしていた。もう夜の八時を超えるころだ。帰りのバスはない。巳影自身としては、納得がいくまでここにいるつもりだろう。
蝶子は事前に聞いていた巳影に関する情報を思い出す。彼にとって高橋京極は、故郷の仇か、それにつながる相手である。じっとしている方が無理、なのかもしれない。
「ねえ、飛八くん」
マグカップにお湯を注ぎながら、蝶子は巳影に背を向けて言う。
「君は……『茨の会』をどこまで知ってるの?」
「知識だけなら、皆さんで共有している程度までしか知りません。……しかし」
振り返った蝶子は、拳を固く握りしめている巳影の言葉を待った。
「どんな理由があろうと、正体がなんであろうと、俺は許す気はありません」
その目は、蝶子が知る限りの巳影の目ではなかった。
鋭い牙をむく獣のような。明確な『敵意』を宿していた。




