92:決戦前、曇る心
子守歌は、一族が犯してきた歴史の戒めだった。教訓としてこの町にも残る、そんな歌の一つ。童謡と姿を変え、伝えられてきた『土萩村』の現実。
黛蝶子が自分も「必要悪」であったことを受け入れたのは、いつ頃だっただろうか。少なくとも、無邪気に笑う他の子どもたちのようにはなれず、小学校に上がるころには孤立していた。それが当たり前のものだと思い、自ら友達を作ろうという発想すらなかった。
「おはようございます、高橋です。本日のお昼ごろ、もう一度『黛書房』に襲撃をかけます。午前中の内に、戦力を集めることをお勧めしますよ。こちらの狙いはもちろん第三の独立執行印の封印解除です。では、ごきげんよう」
歩いている道が真っ暗だという自覚もなく、うつむいていることも知らず。他者をうらやむこともなく、比較すらせず。人と関わらずに生きてきた学生時代は、緞帳を下ろされ、ずっと無音の空間でしかなかった。
しかし。彼ら二人は違った。なぜか。それは今でもよくわからない。二人の内の一人が持つ裏表のない善性からか。もう一人の持つ悪辣なポジティブさからか。それらは重い幕で閉じたステージを、一瞬にして明るくして見せた。
「僕のところにもキョウゴから連絡がきた。なんのつもりなのか……あいつが真正面からくるだけとは思えない。すぐそっちに向かうから、君は用心していてくれ。それから……決して、一人で抱え込まないこと。今はたくさん味方がいるということを、肝に銘じてくれ」
自分が特別不幸だと思ったことはない。だからだろうか、変えようと思ったことすらなかった。「必要悪」であることは当たり前のことで、マイナスの意味でとらえたことはない。
……と。彼ら二人と出会うまで、気づくことはなかった。
軋みで粉々になりかけていた心に、頬を伝っていたものの正体に、気づくことはなかった。
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巳影が『黛書房』に着いた頃、すでに切子と清十郎が到着し、玄関口前で警戒にあたっていた。
ししろと紫雨は書房の中でもしもの時のために、結界を張り、また強化している最中だという。
時刻は午前十時すぎ。空は雲一つない快晴であった。
「一応、近隣の住民には避難してもらってる。適当な理由つけてな」
清十郎は煙草を口にしながら、着いたばかりの巳影に状況を説明する。
民家が密集しているわけではないが、周辺にぽつぽつと点在している。直接被害が及ばなくても、音などで何事かと聞きつけられても面倒だ。現に昨日の戦闘は派手に行われた。二日続けてどたばたと動きがあれば、誰だって不審に思うだろう。
「それで、黛さんは今どこに……?」
「二階の工房だ。ギリギリまで解析作業をやるってよ。ま、神木センセーがついてる。そっちは大丈夫だろう」
加え、工房内では帆夏がリモートで控えている。相変わらずモバイルのパソコンからだが、助言やサポートがいつでも受けられるとなれば、心強い。
「それで、私たち前衛組なんだけど」
切子が身にまとう雰囲気は、すでに臨戦態勢にあった。柔らかな物腰は消え、淡々としている。
「私と大場さんで前を張る。巳影くんはその後ろに控えていてほしい」
手ごまとして現れるとすれば、いつも通りの亡霊かそれとも昨日引き連れた首切り地蔵か……あるいはその両方、とも考えられる。
「役目は高橋京極のけん制……遠距離攻撃を期待してるんだけど、どう?」
「黒点砲ですか……わかりました」
今のところでは、二発が限度の技であるが、飛び道具を持っているのは現状、巳影だけと言えた。
しかし。
(……あの高橋京極は実際二度も黒点砲を受けても、次現れた時にはぴんぴんしていた……けん制になるかどうか、怪しいかもしれないな……)
心がざわつき始めた。漠然とした不安が、勝手に「泥試合になるかもしれない」と弱腰にさせる。
そんな巳影の心境を見抜いてか、清十郎がポンポンと巳影の頭を手のひらでたたいた。
「肩の力抜け。それか、二階に行ってセンセーらと話してみるか。時間ならまだある」
切子もその言葉にうなずきを添えた。確かに、体はすでにこわばっている。リラックスさせるに越したことはないだろう。巳影は一礼して、書房の中へと入っていった。
一階部分。昨日見た隠し通路が開いている。おそらく中で、ししろと紫雨が作業についているのだろう。時折二人の声が響いてきていた。それを耳に残しつつ、二階へと続く階段を上る。
「飛八くんか、おはよう。突然の招集ごめんね」
大きな時計盤のそばに立つ神木が、巳影に気づき声をかけた。その横では蝶子が時計盤に向かい、光るパネルを操作していた。
「いえ……しかし、高橋京極は一体なんで、こちらに準備する機会なんて与えたんでしょう……」
「いろいろ考えられるけど……あいつのことだ。正面から挑むことで、こちらの士気をそぐつもり……なんてこともあり得る。あいつの悪意は底が知れないからね」
脳裏にほくそ笑む高橋京極の顔がちらついた。確かに、何をしてきても不思議ではない相手だ。
話している神木の横で、蝶子の手が止り一つため息が出た。
「少し……休憩した方がいいんじゃないか?」
「じっとしてられなくて……。現時点では何も成果を出せていないもの」
神木の言葉を横顔で受け止めながら、軽く体をほぐし、再びパネルに向かい合う。その様子を見て、神木は腕を組んでしばし考えた後、
「何を焦ってる」
と、つぶやいた。それに蝶子は神木に振り向いた後……口にしかけていた言葉を飲み込んだ。代わりに、手で額を覆い首を横に振った。
「……ごめんなさい。焦ってる。けど、そうでもしないと……「必要悪」の言葉に甘んじてしまうようで……」
深く息をついた蝶子の肩に、そっと神木は手を添えるように置く。
「償いの気持ちを……罪悪感をオーバーワークにつなげちゃだめだ。それじゃ、どこにいても休めない。気持ちを切り替えられない。いずれ……君の心が潰れてしまう」
近くの窓辺にいたチクタクは、蝶子の肩に飛び乗り、丸い頭部で蝶子の頬を撫でた。
うつむいたままの蝶子の表情を、巳影からは見て取れない。しかし、なぜか泣いているように見えてしまい、かける言葉をうまく見つけられずにいた。
戦闘開始まで、あと二時間余り。二階の窓から見える空は、ここからでも快晴であった。曇っているのは人の心だけだという、皮肉を現したような空だった。




