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91:泥試合の沼勝負

 こみ上げてくる気持ち悪さは、いくら嘔吐しても流しだせなかった。『黛書房』から帰るにはもうバスはなく、神木の車で送ってもらった。その間、よく堪えられたと思う。

 巳影は自宅に戻るなりトイレにこもり、激しい嘔吐に苦しんでいた。もう一時間は経つのではないだろうか。

 黛蝶子が表現した「肉」と、それにまつわる話。生理的な嫌悪感と、生物としての反応と倫理観からくるおぞましさ。

 落ち着けたのは、深夜一時を過ぎたあとだった。ベッドに身を沈め、浅い呼吸を整えるため、何度も深呼吸する。

(こんな事実を……みんなが抱えていたのか)

 少なくとも、独立執行印に関わった、今まで出会った人たちすべてにとっては周知の事実だろう。そんな時代に町を逆行させようとする『茨の会』……こんなものなら、誰だって阻止したいはずだ。

 自分の始まりは、復讐のためと真実を知るため。その真実が明らかになりつつある今、引くわけにはいかない。知ってしまったことでもあるが、関わった人たちが『土萩村』を望まないのであれば、協力したい。とっくに他人事ではなくなっている。

(……そのためには、まず休まないと……)

 慣れない相手との戦闘と、大掃除。加えて知ることになった事実。体も頭もパンクしそうになっている。瞳を閉じると、意識は瞬間的に遠のき、沈んでいった。


 □□□


 浮かび上がる薄明りのパネルを、とんとんと、指でたたいていく。二階の工房で時計盤の前に立っている蝶子は、何度目かのため息をついた。

 作業に集中できない。その原因は明らかだった。

(あの子は……飛八くんは、知ってしまった。この『村』が積み重ねていた業を)

 カニバリズム。そう一言で言うのは簡単だった。しかし、だからと言って許されることではないし、蝶子自身も目をそらしたくはない。目を向けなければならないのだ。

 自分が『時護』の血を引く者なら、なおのこと。システムとなって逃れ続けてきたものなら、なおのこと。推し進める行為に加担したのだから、なおのこと。

(私が……しっかりしないと)

 目を開いて、両の頬をぱちんとたたいた。

「ちょーこ」

 合成音が足元で鳴る。チクタクがこちらを見上げ、するすると慣れた様子で蝶子の足から腰、背中へと昇り、頭の上に落ち着いた。

「大丈夫。私なら、大丈夫」

 自分に言い聞かせるように、蝶子は何度もつぶやいた。瞳を閉じ、深く息を吸い込み、静かに吐き出す。


 決めるのは君自身だよ。僕を気にしても仕方ない


 旧友の言葉がよみがえる。そう、決めるのは自分自身の意思。自分がやる、と決めることが大事なのだ。

「……逃げてばかりじゃ……何も解決しない」

 いつの間にか止まっていた指先を、一つ二つと動かしていく。

「前に、出なきゃ……!」


 □□□


「例によってこれは夢なのだが……こうも連続して会うとは、よほど縁があると見える」

 自分の体の感覚さえあいまいな意識の海で、初老の男性が言う。

「理由は……どうやら、君の中にいる「獣」だけではなさそうだ」

 ぼんやりとしていた視界が、次第にクリアになっていく。

 軍服を着ている。それを、つい最近どこかで見た記憶がある。しかし、思い出そうとしても何かが阻んでいるかのように、伸ばした手は「そこ」に触れられない。

「地獄の蓋でも開けたか? ひどく青い顔をしている」

 ……。……。

「知った、聞いたというわけだな。そうだ、私も『土萩村』の出身だ。言わんとすることを、感じることぐらいはできる」

 男性は目を伏せた。しばし沈黙の幕を敷いたあと、おもむろに瞳を開きこちらを見る。

「で、君はどうしたい。知ったうえで、何を成したい」

 心臓が大きく脈打った。全身に、赤い火が流れて循環していく。腕から肘、指先にまで、少しずつぬくもりが行きわたり始めた。

「なるほど、答えは出ているようだ。……だが、足元をすくわれないように気を付けることだ。真実がいつも真正面から現れるという決まりは、どこにもない」

 男性の声が遠のいていく。意識の端が折りたたまれ、現実世界へと浮上し始める。

「それでも、と戦えるのなら……どうか、あの娘を頼む」

 泡の中に映像が消えていく。深く沈んでいた水底から、体が急速に引き上げられていくように、まぶたを超えて降り注ぐ光が眩しくなる。

 自分のうめき声で、目が覚めた。

 ぐったりと疲れ切った体は、一晩寝たというのにあまりにも重い。カーテンを閉め忘れた窓からは、さんさんとした日差しが入り込んでいた。

 時間を確認する。時計の針は九時を示していた。ずきずきと痛む頭をもたげ、ベッドの上から身を起こした。全身が気怠い。今自身を見れば、着替えることなくベッドへと倒れ込んだようだ。服が汗臭い。

 何かまた夢を見た気がするが、ただ疲れてしまったとうだけで、何も覚えてなかった。今はひとまずシャワーでも浴びて、頭をすっきりさせよう。

 ベッドからはい出た巳影の背に、スマートフォンの着信音がのしかかるように鳴り響いた。巳影は寝ぼけ眼のまま、誰からの着信かも確認しないで通話のボタンをタップした。

『朝からごめんね、神木だ。今すぐ『黛書房』に向かってほしい』

 切羽詰まった神木の声に、鈍っていた体の感覚が呼び戻されていく。

「どうかしたんですか」

『キョウゴ……高橋京極が、昼にでもまた襲撃をかけてくる。本人から僕や蝶子にそう連絡を入れてきたよ……』

 なんのつもりなんだか、と神木は短く憤った声を漏らす。

『バスがなければ連絡してくれ。僕が車で迎えに行くから』

 通話が終わると、巳影はすぐにバスの時刻表を調べた。あと十分ほどで来る便がある。

「ほんとに、なんのつもりなんだあの人は……っ!」

 シャワーと着替えはあきらめて、高橋へと毒を吐きながら巳影はマンションを飛び出した。


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