90:地獄の蓋
大量の紙屑を片付け終えたころにはとうに日が沈み、時刻は二十時を過ぎようとしていた。
「……あ~、終わったぁ……」
ししろは階段に腰を下ろし、ぐっと背を伸ばす。
「手伝ってくれてありがとう」
一階奥の給湯室でお茶を淹れてきた蝶子は、ししろへ湯気が浮かぶコップを手渡した。
「しかし……営業妨害もいいところだ」
腰を伸ばしながら言う神木の顔にも疲労の色が見えた。
ほとんどの棚が空欄になってしまった本棚の列をながめ、巳影はぽつりとつぶやいた。
「……なんだって高橋って人は、ここを襲撃したんだろう」
二階に特殊な施設はあるが、それには手を付けていなかったようだった。加えて幸いなことに、解析中だった帳簿は持ち去られることなく残った。
「それは、地下にあるものが目当てだったはずよ」
巳影にもお茶を渡し、蝶子が隣に並んで本棚を眺める。
「地下?」
「見てもらった方が早いかな。……この子に見せても、いいかしら」
同じく渡されたお茶をすする神木へと声をかける蝶子。神木は「そうだね……」と少し間を置いた後、
「彼も立派な関係者だから、今更隠す意味もないと思う。でも、決めるのは君自身だよ。僕を気にしても仕方ない」
神木の視線が、わずかに鋭利なものへと変わる。その視線を受け止め、わずかにたじろいだ蝶子だったが、一呼吸つき「そうだね」とつぶやいた。
「案内するわ。暗い場所だから気を付けて来て」
そう言うと、蝶子は二階へ上がる階段の手前でしゃがみ込む。人差し指に小さく息をかけると、その指で広い円を描いた。
「チクタク」
階段の手すりで待機していたぬいぐるみのチクタクは「賜った」と合成音で答えると、身を縮ませて大きく飛んだ。着地点は蝶子が指で書いた円の中心部分だった。
チクタクの着地とともに、青白い光が円の内部に浮かび上がる。それは二階の工房で見た光のパネルなどの光と同じものだった。
それらの光を蝶子が指でタッチしていく。すると、円状に光っていた床が、消滅するかのように薄れていき、やがてぽっかりと開く穴になった。その奥には、長い石の階段が続いていた。
隠し通路、というものだろうか。どこか新山邸にあった地下に続く道と、同じ気配を感じる。階段は急斜面で狭い。蝶子は腕にチクタクを乗せて下りて行った。巳影もそれに続き、すぐに踊り場にあたる空間へと出た。
空気は澄んでおり、嫌な感じはしない。蝶子が壁の一つを指先でつつくように触れた。
ず……と。重たい石がこすれる音が響いていく。壁は少しずつスライドしていくと、中にあった開けた室内を見せた。蝶子がその部屋へと入ると同時に、壁や床などから淡い間接照明のような光が浮かびだしてきた。やはりその光も、工房などで見る光と同じものであった。
地下室と呼んでいいだろう。天井は高く、息苦しさはない。薄明りに目が慣れたころ、巳影は部屋の中央にあるものに気が付いた。
「これって、二階にある時計盤……?」
足元に注意しながら、蝶子の隣……時計盤の前に立った。大きさは二階に設置されていた時計盤と同じだろう。数字が刻まれているものの、二階のものと同じように針は見られなかった。
「二階にあるのはこれのレプリカなの。この時計盤が、第三の独立執行印そのもの」
そっと指で表面をなぞりながら蝶子が言う。巳影は思わず「これが?」と漏らした。
「……ただの円盤に見えますけど」
今まで見てきた独立執行印と呼ばれる封印から感じられる、不快感や圧力、気持ち悪さのようなものは感じられなかった。むしろ空気は澄み切っており、埃一つ落ちていないこの空間は、居心地がいいとも言えた。
しかし、蝶子の横顔は暗い。
「これは蓋なの。「鬼」を封じ込めた、地獄へつながる封印の蓋」
「じ、地獄……?」
思わずのけぞった巳影を見て、蝶子はクスクスと笑った。
「そう。こわーい世界につながる封印の蓋。なんておじいちゃんにもそう教わったわ」
少しおどけて見せた蝶子は、手に乗るチクタクの生地を撫でながらつぶやく。
「……『時護』の家系が、それこそ死んで地獄までもっていく怖い秘密なの」
どこか寂し気な、自嘲めいた笑みだった。
「その……『時護』っていうのは一体……」
高橋も口にしていた言葉であり、それはなぜか妙に耳になじんだ響きだった。蝶子はまだ視線を時計盤にやったまま、小さな声で答えた。
「鐘を鳴らす番人……まだこの町が『土萩村』と呼ばれていたころのお話よ」
『土萩村』という言葉に、巳影は自然と堪えるような構えをとってしまう。
「この付近の土はひどく痩せてて、ろくな作物もできなかったの。村人たちは常に飢餓とともにあったわ。道端に人が倒れてることなんて、ありふれた景色だった」
雨もろくに降ることもなく、疫病や風土病に悩まされ、また一人一人と、隣人たちが物言わぬ躯へと変わっていく。そう語る蝶子の言葉には、まるで見てきたかのような、迫るものがあった。
「そんな時にね。当時村を統治していた人が……新山さんのご先祖になる人たちがね、一計を案じたの。飢えをしのぐなら、「今ある肉」を食えばいいって」
含みを持った蝶子の言葉には、一瞬でとあることを「連想」させるには十分な響きを持っていた。
蝶子の視線が、我知らずと一歩たじろいだ巳影を追った。
「どうせ荼毘に付すのなら……。また、間引きする子供がいるくらいなら……」
言葉の先は、聞かなくても想像ができた。想像してしまった。
「鐘の音はね。「肉」となった人たちへ送る鎮魂の意味があるの。……と、いうのは我が身可愛さかな。どうか祟らないでくれ、許してくれっていう、生きる者のエゴで鳴る鐘の音なの」
視線が途切れた。それは蝶子の横顔が見えないほど、今自分が後ろへと下がったことを意味した。
「取り決めた周期で「肉」を摂取し、鐘の音を鳴らす……それは同時に、貴重な「食事」の訪れを知らせる合図でもあるの。黛の家はね……「食べる側」で居続けるために、鐘を鳴らす番人を務めた家系なの」
喉がひどく乾いている。呼吸が荒く、か細い物になっていた。
蝶子は振り返ると、巳影の浮かべている表情を見て、自嘲の笑みをこぼす。
「ほらね、地獄そのもの……だったでしょう」




