88:黛書房、強襲
「今君が見て、聞いて、感じていることすべては夢だ。目が覚めればこの記憶は、消えてなくなる」
感覚がぼんやりとしていて、すべてがあいまいだった。今そんな話をしている目の前の人でさえ、きちんと捉えられないでいた。
かろうじてわかることといえば。こちらを気にかけてくれているのは、初老の男性である、ということぐらいだ。服装も、見覚えがあった。だがうまく記憶をひっくり返せず、思い出すことはできない。
「どうやら君は『時護』の鐘の音に中られたようだ。私が君の夢に出てきたのもその影響であろう。しかし不思議だ、なんの所縁もない人物が……」
男性がこちらを見つめている、ような気がする。
「……なるほど。君ではなく、君の中にいる「もの」が引っ掛かりを起こしているのか」
その一言で、体中が熱くなった。まるで燃えさかる炎のように、自分の輪郭がゆらゆらと揺れていた。口から伸びる牙をむき出しにして、慎重に前足で間合いを図る。
「私と争ったところで意味はない。夢の中なのだから。……しかし。恨む気持ちなら、分かる」
構えをとったのだろうか。揺れる炎がさらに強く逆立ち、警戒心が高くなった。
「君を……。君たち『獣』を今の形にしたのは、私なのだからね」
後悔しているようなつぶやきだった。だが、そんなことはどうでもいい。今すぐにでも、その喉口に牙を突き立ててやり、食いちぎる。その一点だけを理性に残して、あとは衝動に身を任せた。
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椅子から転げおちた衝撃で、巳影は目を覚ました。カーテンから差し込む光はまだ鈍く薄暗い。時刻は午前六時手前。
「……あれ」
重たい頭を持ち上げ、自室の中で状況を確認する。
この町に移ってからのワンルームマンション。机とベッドがあり、ほかに目立つものはない。
机には神木が用意してくれていたプリントが広げてある。確か、昨晩とりかかり……少し眠くなったので仮眠をとるつもりで、机に伏した。どうやら、その姿勢のままで寝入ってしまったらしい。
そんな恰好でいたからか、体中がギシギシと痛く、頭も重い。肌も、少し熱気を持っているようにあったかい。
すぐに勉強の続きという気分にはなれず、ひとまずシャワーを浴びてどうするかを考えた。目がさえてしまって、二度寝もできそうにない。
『飛八巳影。先ほど見ていた夢を覚えているか』
ベッドの上で一息ついていた時、頭の中の獣がうなり声をあげた。
「ベタニア……?」
ずいぶんと聞いてなかったような獣の声に、巳影はきょとんとする。
「夢って……さっき俺が居眠りしていた時の?」
『……。そうだ』
なぜか、気配が弱い。いや、弱くしている。慎重に、まるで何かから隠れるかのように。
「覚えてないというか……夢なんて見たかどうか」
『そうか。……ならばよい』
それだけ言うと、獣は意識の外へと去っていった。どこか消極的に感じる獣に、巳影は小首をかしげた。
「……まあ、当人がいいと言うなら、気に掛けることもないか」
それよりも、今は現実に向かうべきだ。大量に用意されたプリントの束と向いあって、無事中間試験をクリアする。しかし机の前に座ってみても、妙にそわそわとしてしまい、集中できずにいた。勉強も大事だろうが、やはり気になるのは……黛蝶子に任せたあの帳簿。
巳影はバスの時間を調べ、出かける準備を始めた。より勉強に集中できるよう、ほかの懸念事項をなるべくなくしていく。中途半端に取り組んでも頭には入らないだろう、と自分に言い訳して。
「……わかる。わかるで。問題を解くことだけが勉強やない」
向かうバスの中で鉢合わせしてしまったししろは、こちらの言い訳……もとい、考えに深いうなずきを見せた。
連休二日の朝、まだ午前中の便であるバスの乗客はまばらであった。
「昨日神木センセーが蝶子の様子見に行ったそうやけど、まだ難しいって言うとったな」
「暗号文の解読かぁ……なんだか、どこ行っても頭使いそうですね」
ついため息をついてしまう巳影につられたか、ししろも「まったくやで」とため息をついた。
「まあ今日はそんな蝶子には差し入れのつもりでな。頭脳労働には甘いもんが必須や」
と、手に下げた袋をぽんぽんとたたく。商店街で人気のパン屋の袋であった。朝一で並んだらしい。
バスは次第に乗客を降ろしていき、目的の駅へとたどり着いた。のどかな田舎ならではの風景は相変わらずだった。
「あれ……?」
『黛書房』に向かった巳影とししろは、書店前の道に停車してある車に目をやった。
「誰か来とるんかな」
見覚えのない、小さな車だった。そういえば神木の車が今、修理のために代車になっていることを思い出した。まだフロント部分はあったかく、来たばかりのようだった。
開くと鳴るベルが、店内に入った巳影たちを出迎える。が、一階には人の気配はなかった。
「二階の工房で作業中ですかね……」
奥の階段へ足を運ぼうとした刹那、後ろから巳影の肩をつかみ、ししろは思い切り後ろへと飛んだ。次には、巳影が立っていた木張りの床が「何か」によってざっくりと切り裂かれた。
態勢を立て直し、ししろと背中を合わせ、周囲に警戒の念を飛ばす。さして広くない店内とはいえ、並べられた本棚一つ一つは背が高く、見通しは悪い。
室内の空気が一気に冷えていく。張り詰めた殺気が、背筋にぞわりと悪寒を走らせた。
視界の端、本棚の影に何かが素早く隠れる。確実に、何かがいる。
「おや。ネズミ捕りにはあなたたちが捕まりましたか」
聞き覚えのある声が二階から聞こえた。二階へとつながる階段の踊り場に、一人の青年が姿を見せる。
「……高橋京極……っ!」
「いい加減呼び捨てはやめてほしいものなんですが……。僕の方が年上ですよ、年長者を敬う心はないんですか?」
困ったといった様子で肩をすくめて高橋京極は苦笑を漏らしていた。
「うっさいわ外道! おんどれ何しに来た!」
ししろの怒声に高橋は小さくため息をついた。
「僕はあなたたちの敵ですよ。攻撃しに来たにきまってるじゃないですか。今日は正々堂々、正面から現れたんです。そこは評価してほしいですね」
高橋の立つ踊り場に、どさりと人影が倒れ込んだ。そこには後ろでに手を縛られている蝶子が身をよじり、立ち上がろうとしていた。
「あなたたちは、逃げて!」
苦しげに顔をゆがませる蝶子が、何とかといった様子で声を振り絞り叫んだ。
「黛さん!」
巳影が階段を駆け上がろうとした瞬間、倒れてもがく蝶子の眼前に、細長い釘が数本打ち付けられる。
「彼女は人質とします。この帳簿も預かっておきますかね」
高橋の手には、修繕された帳簿が握られていた。
「くそ、表に停めてあった車はコイツんか! 真正面から来ても、やることが狡いわ!」
ししろの声に、高橋は「車?」きょとんと眼を丸くした。
「僕は車なんて持ってきてませんが……?」
自分の言葉が終わる寸前、高橋ははじかれたように顔を上へとやった。
「その場を動くな! 『悪性理論・証明禄』」
高橋の体に無数の霊気による糸が巻き付き、がんじがらめにする。
笑みを消した高橋は、二階の梁からこちらを見下ろす神木に舌打ちした。
「神木くん……!」
糸の一振りが、蝶子の手を縛っていた縄へと飛び込み、内側から粉々になるまで分解させる。
「不意を突かれる気分はどうかな、キョウゴ」
「まったく……人にはあれこれ言っておいて」
神木と高橋は視線をぶつけ合い、互いに不遜な笑みを交わした。