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87:もうここにない「今日」だから

 遠くで鐘が鳴っている。ゆっくりとした波長に、大きな波を響かせて。

 まるで遠雷の音にも聞こえてきて、現実味をひどくあいまいにする。

 赤黒い空から、地響きのように響いていく鐘の音に、一人また一人と顔を上げた。

 行かなきゃ。行かなきゃ。

 私も、行かなければ。


 ふと目が覚めた時、目に入ってきた時計はもう朝の八時を指していた。蝶子は身を起こし、重たい頭に軽いめまいを覚えた。手で顔を覆い、首を横に振る。

「ちょーこ」

 電子音の主が、ひょこりと蝶子のベッドに飛び降りた。

「うなされてた」

「……。ありがとう。私なら大丈夫よ」

 寝ぐせのついた髪を手櫛で整え、ベッドから出る。

「修復を急がないとね。思った以上に苦戦しちゃってるし……」

 窓のカーテンを開いて、外の景色を眺めた。のどかな田園風景だ。しかし空は薄暗く、ほのかにくすんでいるように見えた。まばらに浮かぶ雲の位置は低い。

 蝶子はすぐに着替えると、朝食もそこそこに作業へと……針のない時計盤の前に立った。時計盤の中央には、復元され表紙まで姿を見せてきた目録がおかれている。

 蝶子の手元にはいくつもの光のパネルが浮かび上がり、メーター類も同じく浮かび上がってくる。

「さて。やりますか」

 時計盤の周囲に浮かび上がったいくつもの針が、ゆるやかな速度で回転し始めた。


□□□


「おや」

 待ち合わせ場所に商店街の喫茶店を挙げた際、出で立ちはどうするつもりかと思えば。

 高橋京極は店の奥、文庫本を片手にくつろいでいる天宮一式の席に着いた。水を持ってきた店員に、高橋はブラックのコーヒーを注文する。

「驚きましたよ。ずいぶんとカジュアルな恰好ですね」

「おかしいか?」

「いえ。似合っていますよ」

 天宮一式はいつも通りの狩衣に袴姿というわけではなく、クリーム色のジャケットに黒いタンクトップ。下はデニムジーンズに、靴だけは変わらない編み上げのブーツという出で立ちであった。ただ髪の色を変えるつもりはないらしく、赤銅色の髪はそのままだった。

 一方で、高橋はいつも通り黒の法衣を身にまとったままだった。若干、店内の注目を集めているが、誰かがかかわろうとする空気ではなかった。

 それを天宮一式は知ってか知らずか、それとも気にも留めてないのか。自分のマグカップを軽く持ち上げて言う。

「まずはご苦労。いろいろ飛び回ってくれたおかげで、こちらも動きやすくなった。特にあの地蔵の件、予想以上に助かっている」

「もともとの管轄が新山さんたちのものでしたからね。僕は少し背中を押しただけですよ」

 穏やかな話の中で、高橋が注文したブラックコーヒーが届けられる。カップに指をかけ、高橋はまずコーヒーの香りを楽しんだ。

「そうか。では、()()()したのはなぜだった? まっすぐ帰ってこなかったな」

 マグカップが、ソーサーにゆっくりと戻される。

「特に大した理由はありません。単に通り道でしたし、顔見知りに挨拶しただけですよ」

「ふふ……そうか。お前でも昔を懐かしむか」

 しばしの間、店のスピーカーから流れるゆったりとしたジャズが耳を浸した。

 天宮はコーヒーで少し唇を湿らせたあと、視線だけを高橋に向けて言った。

「して。第三の独立執行印……黛蝶子はどう攻略する」

「正攻法で仕掛けます」

 間を置かず返ってきた答えに、天宮はわずかに目を丸くした。

「相澤ししろたちの陣営は、確実に実力と人数を強化しています。加えて、第三の独立執行印となると……奇をてらうよりも、真正面から仕掛けた方がメリットが大きいのです」

「ほう。メリットとは」

「メリットの要となるのは、黛蝶子。彼女が最大の障壁になるでしょうが……正攻法で挑めば、彼女の心が先に折れるでしょう。独立執行印を破り……「鬼」は簡単に姿を現すでしょうね」

 ブラックコーヒーを一口、口の中に含む。喉の奥に香りが流れていくにつれ、香ばしさの後味を楽しむことができた。

 コーヒーの香りを楽しんでいる高橋に、天宮は苦笑する。

「勝手知ったる、というものか。旧友相手に手心を加えるのでは、と思ってしまったよ」

「旧友だからこそ、ですよ。彼女は僕と同じ「悪」ですが……根が真面目すぎるのです。その心は、「悪」とひどく相性が悪い」

「面白いものだ。「絶対悪」のお前と……「必要悪」の黛蝶子か。なかなか、絵になるな」

 今度は高橋が苦笑を浮かべた。

「彼女が持つ『時護(ときもり)』としての罪。それの魅力には勝てませんよ」


□□□


「あら、驚いた」

 工房での作業中、来客を知らせる入り口のベルが鳴り、階段を下りた蝶子は、神木の姿を見るなり目を丸くする。

「進捗状況はどうかなってね。あと差し入れ」

 神木は手に下げた袋を蝶子に手渡す。それは町の商店街でも人気のある、出来立てのサンドイッチだった。

「根を詰めすぎてないかって、生徒たちも心配してたよ」

「……ふふ。なら、小休止入れようかしら。紅茶入れるから、一緒にどう?」

「じゃあ、ごちそうになろうかな」

 『黛書房』一階にあるテラスにて、サンドイッチと紅茶を並べる。ほのかにあたたかな日差しのもとで、蝶子はぐっと背筋を伸ばした。

「解析だけど……ごめんなさい、まだ報告できるほど進んでないの」

 復元自体は終わってるんだけど、と言ってウッドチェアに腰を下ろす。その向かいに座っている神木は「手ごわいんだな……」と紅茶を口にした。

「……」

 蝶子は湯気を登らせるティーカップを持ったまま、じっと紅茶の表面を見つめていた。

「休憩の時ぐらい、いったん作業を忘れてもいい」

 神木に言われ、蝶子はハッと顔を上げる。

「昔と変わらない、悪い癖だな。学生の頃を思いだすよ」

「そう言われれば、試験勉強も私だけ休憩中に問題解いてたかしら」

 互いに苦笑して、そのあとに訪れた沈黙を、二人は甘んじて受けいれた。

 聞こえてくるのは野鳥の声か、風の音だけ。どちらが何を切り出す、ということもなく、神木は紅茶を味わい、蝶子はサンドイッチを食べていく。

「高橋くんに、会ったわ。昨日、訪ねてきたの」

 一通りサンドイッチを食べ終えた後、蝶子がぽつりとつぶやいた。ティーカップに伸びかけていた指をテーブルに置き、神木はうなずいた。

「こっちもだ。多分、君に会った後だろうね」

「彼は……変わってなかった。変わらないことを、選んだから、かな」

 蝶子は手にしたティーカップをそのままにして、紅茶の表面に映る自分を見据えていた。

「……「悪」……か」

 つぶやいて、蝶子は深く息をつく。それに神木はゆっくりと首を横に振った。

「君が『時護(ときもり)』の家系であろうと、過去は過去だ。そして、今の君は、現在に生きている」

 神木の言葉にしばし黙したあと、蝶子はかすかな笑みで「ありがとう」とつぶやいた。

「でもね。鐘の音が耳から離れなくてね……」

 蝶子はまばらな雲のせいで白む空を見上げ、力なく笑った。

「どこかで、自分の罰を探しちゃう癖ができちゃった」

 そよ風が周囲の木々を揺らし、葉がこすれあう。神木が手を付けようとした紅茶は、少し冷めていた。


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