83:毒を残す棘
頭がまともに働かない。思考にもやがかかり、体のいたる箇所にもしびれが広まり、動けないでいた。
「緊張しないで。力をぬいて」
形のいい唇がそうささやく。吐息が鼻先に触れ、くすぐったい。
「楽にして。私がリードしてあげるから」
まぶたが重たくなっていく。同時に、柔らかな感触が顔を覆った。まるでぬいぐるみの生地のような、ホカホカとしたぬくもりだった。
(……ぬいぐるみ?)
瞬間、我に返る。
「ちょーこ、ダメ」
自分の顔面に張り付いているものが、電子音のような声を上げた。それを見ているであろう黛蝶子は、露骨に顔をしかめて舌打ちする。
「……っち、うまくいただけると思ったのに」
心底悔しがる黛蝶子であったが、その顔にぬいぐるみがダイブした。バチン、と比較的大き目な音を立て、黛蝶子の顔に張り付いた。
「ちょーこの無礼を許せ、少年」
黛蝶子の顔の上で器用に首を垂れるのは、芋虫のような体を持ったぬいぐるみであった。もこもことした胴体は昆虫らしさをうまくデフォルメしており、なんとも愛嬌がある。
その下敷きにされている黛蝶子は頬を膨らませて、芋虫型のぬいぐるみを顔からはぎ取った。
「無礼なんかじゃないわ、ちょっとしたいたずら半分の挨拶じゃない」
「なぜ、挨拶だけで済ませないのか。毎回」
「えっと……それは?」
何やら言い争いを始めた一人と一匹(?)の間に割って入り、混乱した頭を落ちつけようとする。するとぬいぐるみの方から先に返答があった。
「それ、ではない。某の名は、チクタク。黛ちょーこの式神である」
なぜか言葉が片言であるぬいぐるみは、自らを「チクタク」と名乗った。
チクタクはわしづかみにされた蝶子の手からするりと抜け出し、蝶子の頭上に収まった。
「若い男を見ると、ちょっかいを出さずにはいられない。ちょーこの、悪い癖」
「言い方に難があるわ。若い男じゃないの、私の定義に当てはまる「男の子」なの」
なぜか生き生きとハツラツな様子で蝶子は胸を張る。
「その点でいえば、飛八くん。あなたは近年まれにみる理想的な……「ショタ」だわ!」
帰りたい。
「客、困らせるな。仕事、しろ」
チクタクが体をうねらせ、しっぽ部分で蝶子の頭をはたいた。蝶子といえばまだ不満そうではあったが、渋々といった様子でうなずいた。
「ジョークは終わりにして、その本の修繕に入るわ。預けてもらえる?」
「……だ、大丈夫なんでしょうね」
「あら、警戒されてる。まあ仕事でおふざけをするつもりはないわ。心配なら、見ていく?」
黛蝶子が浮かべた笑みには邪な気配はなく、今度は巳影が渋々うなずいた。
レジ裏から上る細長い階段を上がると、二階部分の開けた部屋に出た。木造住宅ならではの木のぬくもりと、ロッジのような秘密基地感が合わさるものだった。
「これは……?」
真っ先に目が付いたのは、部屋の中央に置かれた、大きな時計盤だった。半径だけで一メートルはありそうだった。しかし、時計にしては肝心の針がない。
「ここは私の工房ってところかな。書物の修繕はここで行うの」
針のない時計盤の前に立つ黛蝶子は、その時計盤にそっと指で触れる。同時に、時計盤からホログラムのような光でできたメーターや数値などが躍り出た。
「ど、どうなってるんですか、それ」
「守秘義務があるので詳しくは話せないんだけど、まあ私の特技と思ってもらえれば」
浮かんだ光のパネルを素早くタッチしていく様は、ベテランのプログラマーがキーボードを打ち込む姿をほうふつとさせる。
「じゃあ、始めるわね」
巳影から受け取ったファイルケースから、ボロボロになっている目録を取り出した。それをそっと、時計盤の中央へと浮かべた。目録は宙に浮き、それを囲むかのように複数の長針短針が現れた。
その針が目録の周りを周回していく。まるでスキャナーが読みとっていくように針から出る波のような光が目録へと収束していった。
黛蝶子はそれを目にしながら、手元に浮かび上がるコンソールパネルのようなものをタッチしていく。
(まるでSFの演出みたいだ……)
感心して、上下するメーターや数値などを見て、どこか心がわくわくする高揚感を抑えきれずにいた。一方黛蝶子の横顔は、真剣な面持ちそのもので、今までの邪気が混じった目ではなくなっていた。
その目がわずかに険しいものになった。光るパネルをタッチする手をいったん引いて、顎を指でさする。
「これの概要はあらかじめ、神木くんから聞いてたんだけど……」
「何か、分かったことが?」
一呼吸置くと、黛蝶子は再び作業へと戻った。
「確かに目録……帳簿みたい。いろんな品物を受け取り、また出していく記録が記されてるわ。でもその内容がね……」
複数の時計の針が十二時の方向へと集まっていく。中央に据えられた目録がひとりでにおぱらぱらとめくれ始めた。
そこには掠れて消えていた文字が、しっかりと再現されていた。墨と筆で書かれたものと分かり、場所によっては書いたばかりのように、まだ墨の艶を見ることもできた。
「すごい……!」
文字だけではなく、掠れてすぐにでも破れそうになっていた目録の紙まで張りを取り戻し、新品同様の形に変わっていた。
「あ、まだ触らないで」
黛蝶子は思わず駆け寄ろうとした巳影に、言葉だけを投げる。本人の視線は復元されたであろう目録へと注がれていた。
「これ、何かの暗号文になってるのかもしれない」
風もないのに、目録のページが一枚、二枚と開かれていく。
「……「獣」に「星」。「月」と……「浄化」……?」
黛蝶子がつぶやいた言葉は、昨日神木が何かのヒントになれば、と拾ったものだった。
形のいい黛蝶子の眉が眉間にしわを作る。
「一つ、それらしい単語があったわ」
自動的に開いていく目録の動きが止まり、文章が書き殴られているページをあらわにした。
「……『荊冠計画』……いかにもって感じな名称があったんだけど……これに聞き覚えは?」
「けいかん……?」
耳慣れない言葉をおうむ返しにした巳影に、黛蝶子は簡単に補足した。
「 荊冠っていうのは茨の冠のことね。キリストが受難を表すためにかぶってるのを指すのが一般的かしら」
「茨……!?」
顔がこわばっていく様子が、自分でもわかった。
(ここにきて……茨。偶然、なのか……?)
思い出されるものは、『茨の会』。その存在を無視することはできない言葉だった。




