82:誘蛾灯の魔女
「どういう意味だったんだろう……」
バスは荒い舗装の道を走り、車体は時々揺れていた。車窓から見える景色は町のはずれへと移り、すれ違う車もぐんと少なくなっていった。バスの中、乗客は巳影一人だけだった。
巳影はカバンの中に入れたファイルケースをもう一度確認する。そこにはあの目録が収められていた。
「これに書かれていることが気になるのは確かだけど……」
バスが緩やかに減速していく。目的の駅に到着したようだ。
「二人とも……紫雨も大場さんも、嫌がっていたような……」
時は、一時間ほど前にさかのぼる。
□□□
本日の放課後。校内放送で神木から職員室に呼び出しを受けた巳影は、その道すがらで言い争いをしている紫雨と清十郎と出会った。
「じょーだんじゃないっすよ! 大場さんが行ってくださいよ!」
「ふざけんな馬鹿野郎! いやに決まってんだろ!」
周囲の生徒たちの注目を集めながらも、二人はファイルケースを押し付けあっていた。
「……何してるんです?」
周りの視線にはどこか怯えるものもあった。ヒートアップしている二人は関係者であるが、他の生徒から見れば部外者だ。ざわつきが大きくなる前にと、巳影は二人に声をかけた。
すると二人は同時に巳影へと振り返り、一度双方ともに目くばせする。
「おい飛八……お前身長低い方だよな……どれぐらいある」
言う清十郎の目は座っていた。それを怪訝に思いつつも、巳影は素直に答える。
「去年の身体測定から変わってなければ、158cm……ですけど」
「160以内……よし」
清十郎は額に浮かんでいる汗を手の甲で乱暴に拭った。
「僕からも。飛八さん……正直に答えてくださいね」
「な、なに……?」
異様な圧を放ちながら、睨むようにこちらを見る紫雨が口を開く。
「飛八さん……童貞ですか」
「……。さっきから質問の意図が……」
「童貞かどうかって聞いてるんです!」
「大きな声で聞くこと!? そ、そりゃあ……そんな経験はないけど」
気恥ずかしくなりながら、巳影は小声で答えた。同時に、紫雨と清十郎はハイタッチする。
「飛八! このファイルはお前が『黛書房』に持っていけ!」
と、突きつけられたファイルケースを反射的に受け取ってしまう。その中には、昨日も頭を悩ませた目録が収まっていた。
「これを……ど、どこです?」
「バスで行けますよ。じゃあ兄さんにはあなたが行くってことで収まったと伝えてください」
早口でまくし立てると、紫雨は足早にその場を去っていった。あっけにとられているさなかで、いつの間にか清十郎も姿を消していた。
結局職員室では神木からこの目録を『黛書房』へもっていくよう、去っていった二人にも頼んでいたことが分かった。持っていくだけなら、と巳影は請け負うものの。
「うーん……まあ、君なら変に刺激したりしないかな」
と、神木は意図をとれない言葉を漏らしていた。
□□□
降り立った場所は、山林にほど近い、のどかな場所だった。近くには川が流れ、吹く風も涼しいものに感じた。広い敷地を持つ住宅街を抜けた先、田園風景が広がる中、町の南側に位置する駅は、この地区の入り口となっているらしい。
巳影は早速神木から渡されたメモの地図を広げて歩き出す。簡単な地形らしく、歩いて十分もすれば目的の場所へとたどり着いた。
軽い傾斜を持つ森林の中には、古風な趣の家が建っていた。木々の間から覗く煙突が特徴的だ。家の前には筆のような書体で『黛書房』と書かれた看板が立っている。そこには「古書の修繕、承ります」とも書かれていた。見事な達筆だった。
「……どんな人がいるんだろう……」
紫雨、清十郎がひどく避けていたように見えたので、なんとなく古いタイプの職人を思い浮かべてしまう。軽い緊張とともに緩やかなアプローチを上り、『黛書房』のドアを押して開く。
「こ、こんにちは……」
やや委縮して入った店内には、かすかに墨の香りが漂っていた。
いくつも並ぶ本棚には、店の外見には似合わない、コミックスがずらりとそろっていた。少年漫画、少女漫画、青年誌のコミックと、レパートリーは広そうだった。
「あら、いらっしゃい。『黛書房』へようこそ」
本棚の奥、古い形のレジの前に座る人影に今更気が付いた。
「ど、どうも……あの、神木先生から話がいってると思いますが、これの……」
「うん、聞いているよ。でもてっきり神木くんの弟ちゃんが来るかなって思ってたから」
丸いレンズを持つモノクルを外して立ち上がり、レジ奥から現れたのは一人の若い女性だった。
黒いレースの服をまとい、長く伸びた艶のある黒髪は、蝶を模した髪留めで背中にまとめられていた。
(……モデルみたいな人だ)
年のころなら清十郎とあまり変わらないであろう、高身長で細身の体躯は、ただ立っているだけで絵になっていた。
「神木先生とはお知り合いなんですか?」
「彼とは同期なの。高校までは同じ学び舎にいたからね」
懐かしむように微笑を浮かべた女性は、改めて一礼する。
「私は黛蝶子。この『黛書房』の店長でもあり、第三の『独立執行印』管理者よ。よろしくね」
蝶子、と名乗った女性の一言で……『独立執行印』という言葉が出た瞬時、緩やかだった店内の空気が凍ったように固く、冷たくなる。
「あなたのことは聞いているわ、飛八巳影くん」
「……」
「だからって、そう怖い顔しないでね。敵味方でいうのなら、私はあなたたちの味方よ」
黛蝶子は長い人差し指で自分の唇に触れ、小さく笑う。
「といっても、初対面でいきなり打ち解ける方が難しいよね。なら私の仕事を見て、信用にたるかを決めてほしいわ」
黛蝶子は巳影の持つファイルケースを指さした。
「書物の修繕も私の仕事なの。どれだけ破損していてもね」
「え……直せるんですか、こんなボロボロのものでも?」
「もちろん」
うなずくと、黛蝶子は「ただし」と付け加える。
「私の「趣味」に付き合ってもらえれば……だけどね」
巳影を見つめる二つの瞳には、恍惚とした熱が宿っていた。その唇を舌がなでて、艶を作る。
巳影は我知らずと、一歩後ろへ下がっていた。空気が、おかしい。張り詰めたものから、妙な熱気を内包するものへと変わっていた。
「怖がらなくてもいいよ。優しくしてあげるから」
気が付けば、黛蝶子の細い指は、巳影の頬をからめとっていた。




