78:土萩村の住民
もとより鍛え上げられた筋肉はさらに分厚さを増し、異形となった新山堅郷から見受けられる隙は皆無だった。だが。
「狙うは……一点」
人間のものよりも数倍近く膨れ上がった胸板には、高橋京極が手渡し、新山自身が突き立てた肥後守がそのまま残っていた。ししろはそれを凝視する。
柄や刀身に刻まれた文様などの装飾が、鈍い光を散らしていた。見たことのない形ではあるが、その装飾が何の役割を果たしているかという、想像はついた。
「あれがスイッチや……変貌か強化か、どちらにせよ肉体を刺激する術式が組み込まれとる。それさえ外してしまえば……!」
ただそれが母体である新山の体に、どんな影響を及ぼすかまではわからない。短い時間で考えても、予想できる結末はろくなものではなかった。しかし。
「ししろ!」
新山の巨体が近づいてくる。ししろはいつの間にか俯かせていた顔を上げ、戦闘準備万全の切子の背中へと叫ぶ。
「攻撃をさばいてくれ! 隙をついてウチがぶち込む!」
右手に握りしめた複数の札が、瞬時に白く揺らめく光となった。「了解」と短く返した切子は自ら前へと踏み出した。その足首周りに、空気を焼く電流がはじけて消えた。
新山が繰り出した拳は、人間の頭ほどの大きさになっていた。暴風をまとって、紙一重で回避した切子の頬に、赤い筋を残す。
拳の内側に飛び込んだ切子は、拳を出した際に踏み込んだ足の膝上部に、ナイフを深々と突き刺した。ナイフの刃は放電の光を弾けさせながら、筋肉の繊維を切り裂いていく。
刺したと同時に後ろへと飛びのいた切子の眼前を、鋭く伸びた爪が空間を裂いていった。切子が羽織っていたミリタリージャケットの裾の一部が、その裂け目に吸い込まれて切り離される。頑丈なつくりの布地が、焼け焦げたように真っ黒に染まり、チリへと帰した。
切子は着地すると同時に二本、ナイフを飛ばす。まっすぐに伸びたナイフは新山の腕に突き刺さるも、その腕で強引に切子を薙ぎ払おうと、大きくスイングする。
振り切られた腕は暴風を生み、もろくなっていたあぜ道の土を簡単にめくりあげる。散らばり、弾けた土は広範囲にひろがる弾幕となり、一瞬の間切子の視界をふさいだ。
わずかに判断が遅れた切子の体に、真正面から突き出した拳が打ち付けられる。巨大な拳が当たる瞬間、腕を交差させ衝撃に備えた切子の体は、簡単に地面から引きはがされた。剛腕が放つ威力に、切子の体が宙に浮く。その体を、目のない顔が捉えた。閉じられていた牙同士が離れ、あふれる唾液とともに猛獣のような咆哮を吐きだした。
広く大きく開かれた口は、空中で身動きの取れない切子へと伸びた。
「こっちが本命や、くそ爺!」
口が開ききる寸前、その巨躯が野太い音を立てて震えた。上へと顔を持ち上げた新山の真下から、白く光るししろの右手が、肥後守の突き刺さった胸板へともぐりこんだ。
痛みのための悲鳴か、まるで金属が引き裂かれるかのような甲高い鳴き声が、牙だらけの口から吐き出される。
「大祓に祓へ給ひ清め給ふ事を!」
祝詞を怒鳴るように叫んだししろの右手が、突き刺さっていた肥後守の刀身を握りしめた。
「諸々聞食せと宣る!」
強引に、力任せに腕を引き抜く。黒いオイルのようなぬめり気を持つ体液が、新山の胸から噴射された。筋肉の山と化していた巨体が、膝を折って崩れた。うなだれた頭からは、一つ、二つと牙が零れ落ち始める。
膨らんでいた二の腕の筋肉は収縮を始めだし、骨が砕けるような音を伴って、腕や足の長さが元の人間のものへと戻っていく。蒸気のような霧が全身から立ち込め、その奥からくぐもったうめき声が這い出てきた。
「おのれ……!」
霧を裂いて現れた人影は、胸を押さえながら地面を踏みしめ立ち上がる。その全身には、コールタールのような粘度を持つ汗が垂れ下がり、地面に雫を落とすと触れた土は蒸発するように焦げ、くぼみを作った。
「戻った……!?」
切子はナイフを改めて構え直し、ししろの前に出る。その先で、見る物に穴をあけるかのような鋭い眼光を宿した新山が、屈辱に顔をゆがませていた。
「おや。これはまだ改良の余地がありそうですねえ」
張り詰めた空気を無視した高橋の声で、全員が元の応接間に戻ったことに気が付いた。
「だが素晴らしい戦闘力だったな。まだ新山がこの力を完全にコントロールできていないとはいえ」
高橋の隣に立つ天宮一式は、穏やかとさえ言える口調でうなずく。
「おんどれら……っ!」
高橋たちへ振り向こうとしたししろの手に、激痛が走った。握りしめていたあの肥後守が震えはじめ、柄と刃に真っ赤な文様を走らせた。ししろは慌てて肥後守を床に投げ捨てた。新山の体から引き抜く際、刀身を力づくで握ったためか、手のひらと指には深い切り傷がついている。
「さて。俺たちはこれで失礼しよう。課題もできたし準備にも忙しい」
痛みでわずかに顔を伏していたししろが顔を上げた時、応接間には切子以外の人影が消えていた。新山の巨体でさえも、視界の中では見つけることができなかった。
応接間の窓の外、一羽のホトトギスと雀が羽を伸ばし、飛び立っていくのを見送りながら、ししろは奥歯をかみしめて座り込む。何か一つ吠えたいところではあったが、もう気力と体力が限界に近かった。
「くそ爺……!」
ざっくりと切れた手のひらをハンカチで強引に縛り、しばらく震えていた肩を大きく落とした。
「……ししろ」
切子がそばに寄り、しゃがみこんで様子を見る。うつむいたままのししろは、強い疲労の色に染まった顔を上げ、小さく「大丈夫」とつぶやいた。
わずかな沈黙が落ちた後、切子のコートに入っていたスマートフォンが呼び出し音を、けたたましく応接間に広げた。
『途中で通話が切れたけど……何があったの!』
念のためにバックアップの帆夏へつないでいた通話が、いつの間にか切れていたようだ。結界の出入りで電波が途絶えたのだろうか。
『あと巳影っちたちもそっちに向かってるって。状況の整理と説明、できそう?』
「……巳影くんたちと合流してから、帆夏ちゃんにも話すね」
いったん通話を切った切子は、床に座り込み、立ち上がる気配のないししろの肩に、そっと手を置いた。
「少し、休もう……巳影くんたちがこっちに来る間ぐらいは、ね」
ししろは口を開きかけたが、言葉を発することなく、小さくうなずくだけだった。




