77:ユートピアヒューマン
この町を『土萩村』へと戻す。それはつまり。
「あふれ出る「鬼」、疑いあう人間たち、よみがえる因習とゆがんだ秩序。まあろくな事にはならん。だが我々の願いはその『土萩村』に存在する。いわば理想郷というものだ」
歌うように語る天宮一式は、ししろに胸倉をつかまれて、背中をドアへと押しやられた。
「正気か、おんどれ」
「さて、な。だがそこの翁は本気ではいる」
天宮は視線を新山へとむけた。
「町を『土萩村』へと帰化させれば、住民すべてをあの姿に変えるつもりさ」
天宮から手を放し、苦い顔のままでししろは祖父へと振り返った。
「爺ちゃん……どこまで本気なんや」
どこかすがるような瞳で見る孫を、新山は鼻で笑って突き放した。
「その男の言ったとおりだ。一部の人間だけが蜂起しても無意味。住まう者すべてが決起しなければ「鬼」の支配からは解放されん」
「それはあんたの妄執やろ! そんな身勝手に付き合わされるんか、なんも知らん町の住民すべてが!」
「今この町の平穏はすべて、過去の犠牲の上に成り立っている。ならば、今生きる者たちも責務を果たすのが道理だ」
新山は不動のまま、淡々と言葉を返した。その様子を見ていた天宮は、緩んでいる口元を開かずに見守っている。その背を預けっぱなしにしていたドアが、ノックの音を部屋の中に転がした。
「失礼。遅れてすみませんねえ。最終調整に手間取ってしまいました」
飄々と現れた高橋京極は、わざとらしく「おや」とししろ、切子を目にとめて口元をゆがめた。
「取り込み中でしたか、重ね重ね失礼しましたね」
「高橋京極……!」
ししろは今にもつかみかかりそうな気性で、高橋をにらみつけた。
「今日はあなたたちに要件はありませんよ、あしからず」
ししろの敵意を軽くあしらった高橋は、よどみのない足取りで新山の前に立つ。
「お待たせしました。これが完成品です」
法衣の裾から取り出したのは、手のひらに収まるサイズの折り畳みナイフ、肥後守だった。その柄には複雑な文様と、きらびやかな装飾が施されていた。受け取った新山は柄からナイフ部分を引き出し、刀身をじっと見つめた。
ぞくりと、ししろの背筋に冷たいものが走った。悪寒が、肌を過敏なものにする。
「なんや、そのナイフ!」
新山に突っかかろうとしたししろを、切子の手が遮った。切子の横顔は、同じ悪寒を感じ取ったからか、緊張しこわばっていた。
「ただの刃物ではありませんよ。我々が研究を重ねて作り出した、とびっきりの呪具です」
高橋は得意げな顔で言った。
「彼の……新山堅郷という男の宿願を叶えるための、ね」
瞬時に、記憶が鮮明によみがえった。変貌を遂げ、異形となった者の気配が……あの血なまぐさい腐臭が、新山の持つ肥後守の刃からにじみ出ている。
「ししろ。貴様は妄執、と言ったな」
刃を立て、新山は肥後守を逆手に持った。
「ならばそれに迷いがないことを、決意があることを見せてやろう」
逆手に持った刃を、新山は迷うことなく自分の胸へと突き立てた。
「じ、爺ちゃ……!」
「決して世迷言ではない、揺らがぬ真実。真実とは……絶対的な力にある!」
駆け寄ろうとしたししろは、再度切子の手により止められる。今度は襟元をつかまれ、切子のよって強引に後ろへと引き倒された。
「きり……」
「下がって! この人はもう違う!」
鍛え上げられて作られた、新山の筋肉の鎧が徐々に膨らんでいく。
太く丸太ほどの厚さがあった腕が、さらに膨らみだした。
苦しげな嗚咽を漏らす口は、口角を割いていく。歯は音を立てて大きくなり、顎はそれを支えるために長く大きく肥大化し始めた。平均的な人間の歯の一つ一つが、握りこぶしほどの大きさへと伸びて広がっていく。
顎関節が外れ、膨れ上がった歯は鋭さをもつ犬歯のようになった。開かれた口は、もう生物の範疇を超えていた。上顎はせり上がり、目や鼻といった器官を後ろへと追いやり、頭部は巨大な口を支えるだけの部位と化した。
両足は腕と同じように膨らみ始め、靴を内側から引き裂いた。長く伸びた爪はまるで猛禽類の足を連想させる。
背中の肩甲骨が不自然にせりあがっていく。首は頭を支えきれなくなり、背筋は丸く曲がり始めた。毛髪はすべて抜け落ち、頭皮と呼べるものは、固いうろこのような皮膚が覆い隠した。
もともと長身であった新山の体は、膨れ上がっていく筋肉によりさらに巨大化し、高い天井にその頭部が届きそうになっていた。その巨体は、ゆうに三メートルはある。
「成功ですね」
異形を見上げる高橋が、満面の笑みを浮かべた。その隣で天宮が感心した声を上げる。
「見事なものだ。これなら「鬼」に引けを取らないであろう。だが……屋内では窮屈そうだな」
天宮が指を鳴らす。その瞬時に、部屋は先ほどまで広がっていたあぜ道へと変わった。空は不自然に暗く、荒れた田畑が広がっている。
「そちらの結界を借りたぞ。どうせならその体で動きたいだろう、新山」
答える代わりか、それとも答えられないからなのか。新山だった異形の足が一歩、土を砕いて前に出た。むき出しになった歯からは、よだれらしきものがこぼれるように落ちている。その歯の先にいるのは自分の孫娘であることに、新山は気づいているのか……見るだけでは判断がつかない。
「……切子、前衛頼めるか」
ししろは制服の内ポケットから、複数の札を取り出した。切子はうなずくと同時に、ナイフを構えてししろの前に出る。
「耄碌しすぎて人間辞めたか、くそ爺」
垂れ下がった太い腕が、ゆっくりと持ち上がる。乱杭歯の巣窟となった口が大きく開かれた。
「ボケたその禿頭、ウチがはたき飛ばしたるわ!」
ししろの手の中で、握られた札が白い輝きを放ち始めた。




