表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
74/154

74:青空を駆ける

 敗北。完全な負け戦だった。来間に刀を突きつけられた清十郎は、疲弊して立ち上がることすらできなくなっていた。右手に握る太刀もまた、輝きを失いつつある。

 見下ろす来間はにこりと笑って刀を握る手に力を入れ、ふと顔を上げた。

「おやおや。君をいたぶったかいがあったみたいだ」

 足元にパラパラと、何かが落ちてきていた。つられて清十郎も上を見上げる。頭上、大きな赤いコアには、深い亀裂が走り出している。

 ガラスが砕けるような音が、長く節のある「足」を、コアの中から突き出した。コアの表面が粉砕され、伏していた清十郎の周りにシャワーの如く、コアをなしていた赤い石が降り注いでくる。

「ようやく出てきてくれたかぁ。手間が省けたよ」

 四対の八本の足が、瓦礫まみれの地面に鉤爪を立てた。口元にある大きな顎は、人間の頭なら簡単に噛み砕いてしまいそうだった。いくつもの複眼が、悠々と立つ来間を映し出している。

「なるほど、これが君の「鬼」としての姿なんだ」

 全長四メートルほどの巨大な蜘蛛が、雄叫びのような咆哮を上げる。それは虫というよりも、肉食獣の荒々しさに似ていた。

 清十郎の前に降り立った巨大蜘蛛『暗鬼』は、来間の頭上に鎌のような足を振り上げる。

 鞭のようにしなった一撃は、腐った木張りの床や瓦礫の破片などを、一瞬で粉々に粉砕する。それを飛び下がり回避した来間の足元へ、『暗鬼』は口から放たれる糸を吐き出した。

 白い糸が来間の足首まで絡まり、動きを止める。

 それを断ち切ろうと刀を振り下ろすものの、来間の腕ごと固い音を伴って、簡単に弾き返されてしまう。

 『暗鬼』の移動は速い。八本の足で動けないでいる来間に這い寄ると、鋭い顎を開いて牙をむいた。来間はもう後ろへは下がれない。

 しかし、来間の体は沈むように下がり、機敏な動きで後転して、顎の間合いから脱出する。糸で固められたはずの片足は、裸足になっている。

「お気に入りの靴だったんだけどなあ」

 来間は軽くため息をつく。しかしそこに焦りなどの気配はまるでなく、刀を肩の上で弾ませると、「かかっておいで。遊んであげるよ」と手招きした。

「よ……よせ、やめろ……!」

 『暗鬼』の後ろで立ち上がろうとした清十郎は、震える膝にうまく力を入れられず、床へと崩れ落ちた。

「君はもう休んでなよ。意識を保つことで精一杯じゃないか?」

 『暗鬼』が放つ、しなる足をさばきながら、また回避しながら、来間は苦笑を交えて言った。来間のフットワークは軽く、無駄がない。回避のためのステップが、前に出る踏み込みの予備動作になっており、刀が軽く振られた。空を滑るように薙いだ横一閃の刃は、複眼の一つを斬って割いた。黒く、赤い液体が噴水のように拭きだして、『暗鬼』は悲鳴のような鳴き声を放つ。のけぞってしまった『暗鬼』の懐へと、流れるような足さばきで入った来間は、大きな胴体を真下から突き上げた。刀身は目深に突き刺さると、来間は更に力を入れる。

 刀を返し、押して、胴体から腹部にまで深い裂け目を作り出した。

 鮮血が、廃寺を赤黒く染めた。沼のように溜まった血の中に、『暗鬼』の巨大な体躯が沈む。

「ふう。なんだ、「鬼」ともあろう存在が。あっけないものだね」

 吹き出した血を半身に浴びた来間は、拍子抜けしたという様子で肩をすくめた。

「でも刀は……あ~あ、刃こぼれがひどいなぁ。ボロボロだぁ」

 赤く濡れた刃を振って、張り付いた血を払拭する。

「ま、運が良かったかな。「鬼」も斬れたし退治もできた。ハッピーエンドだね」

 赤い沼には、小さな身体が沈んでいた。胸元から下腹部にかけて、深い「溝」が穿たれていた。もうその体には、動く気配はなかった。無機質な物体と同じで、動き出そうとするエネルギーは秘められていない。

 足を引きずりながら、清十郎は沼へと入り、沈んでいる小さな手をそっと握りしめる。体が濡れることをいとわず、かつて「少女だったもの」の体を抱きかかえた。

「こ、こんな……こんな結末なんてっ!」

 見ていることしかできなかった紫雨は、膝を折ながらも強く地面を拳で叩いた。

「……」

 立っているのがやっとだった巳影もまた、力の入れどころがわからなくなり、うなだれて震えている足に手をつき、歯を強く食いしばった。

 完全敗北。完膚なきまでに、叩き潰された。来間堂助という人間ただ一人に。

「さあ、俺はひとまず帰るよ。シャワーも浴びたいし、何より臭くてしょうがない。血の匂いというよりは、腐臭だよ。血が腐ってたのかな?」

 刀を鞘に戻した来間は、カラカラと笑いながら踵を返した。その背に。

「無粋だよねえ、大場清十郎くん」

 来間は振り向きざまに、抜いた刀を疾走らせた。飛びかかっていた清十郎は胸を横に斬られ、みぞおちへと重たい蹴りが突き刺さる。手からこぼれた太刀は地面に落ちる前に粒子の泡と化し、消滅した。清十郎の体躯は地面を転がり、少女の亡骸の元へと戻った。

 沼の中で亡骸と並んで倒れている様を見て、来間は「来世ではお幸せに」と手を振った。



 □□□


 清十郎が目を覚ました時。体の重たさは何故か感じなかった。

 慌てて起き上がり、周囲の様子に目を丸くする。

 訳アリの安アパートの中。自分は布団の中にいた。

「あ、あれ……」

 時刻は午後四時前。いつの間に眠ったのだろうか。まだふらつく頭を叩いて、気持ちを切り替えようとした。そろそろ仕事にいく準備もしなければならない時間だ。

「おにいちゃん」

 窓際からかすかに聞こえた声に振り返る。窓を背に、小さな少女が立っていた。

「お、おう。これから仕事いくから、お前はちゃんと休んで……」

 少女の体がそっと、清十郎の胸の中に寄り添った。

「いままで、ありがとう」

 微笑む顔を、清十郎はきょとんとしながら、しかし、徐々に震え始めた腕でそっと抱きしめた。

「名前もない私を、まもってくれてありがとう」

 笑おう。笑わなきゃ。口角を引き上げ、笑みの形をつくる。

「私、すごく幸せ」

 言葉を。声を出さなきゃ。

「おにいちゃんに会えて。会いに来てくれて」

 聞くんだ。一言一句、聞き逃さないよう。だって、この子は。この子はもう。

「生まれてきて、よかった」

 抱きしめた腕の中の体温が、少しずつ遠くなっていく。

「おにいちゃんのこと、好きになれてよかった」

 追いかけない。高く登っていく微笑みを、踏みとどまって見上げる。

「だいすきだよ」

 まばゆく咲いていく笑顔に、清十郎は小さく頷いた。

 空は、晴れていた。



 □□□



 落雷が、四方八方へと飛び散った。穴のあいた廃寺の天井を撃ち抜き、高く上がった蒼い光は、晴れた空の中に弾けて大気を揺らす。

 差し込む日差しに目を細め、来間は振り返った。手にはすでに、抜き放った刀が握られている。

「ここからは意味のない戦いだ。俺たちの目的は達成されたし、君たちは守りたかったものを守れなかった。勝敗ならすでに着いている……けど」

 来間はかすかに笑っただけで、その表情はすぐに引き締められる。

「それでもというのなら……無下にはしないよ。俺は優しいからね」

 剣先を下に払い、足を肩幅程度に広げる。

「自分の気持ちにケリをつけたいというのなら、付き合ってあげるよ。君の命が終わるという形でね……大場清十郎くん」

 言う来間の頬を、蒼く弾けた光がかすめていく。

 ぶらりと下げられた太刀は、落ちてくる日差しを吸い込むように輝いていた。刀身は、青い空を映し出している。

 蒼天を宿した太刀を手に、清十郎は顔を上げて構えを取った。その口元には、いつの間に火をつけたのか、煙を揺らす煙草がくわえられていた。

 一呼吸のあと。紫煙が登り、煙草のフィルターは、食いしばった歯に噛みきられて半身を飛ばす。

 振り下ろした太刀は紫電をまといながら、迎撃した来間の刀へと食い込んだ。

 まだ火種を灯した煙草の先端が、音もなく床へと落ちる。それを追うようにして、鈍色の輝きを持った刀の半身が床の上に突き立った。

「……しばらく煙草は遠慮してたもんでな」

 二本目の煙草に火をつけた清十郎は、肺を満たした煙をゆっくりと吐き出した。

「ま、今からは気にせず呑めらぁな」

 背を地面につけて倒れた来間に、太刀の切っ先を突きつけた清十郎は、太い笑みで煙草の先端を赤く染めた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ