73:殺意VS狂気
まるで巨大な和太鼓が叩かれたような、腹の底に響く音。それはとても、剣同士が斬り結んだ音とは言えなかった。刃と刃が互いに食い合い、押し合い、弾けてまた、ぶつかる。
来間は何度目か刃を交差させたあと、大きく後ろへと飛んで、間合いから離れた。
「こりゃ……まいったな」
呟く横顔には、焦りの気配は感じられない。しかし薄笑みはとうに消え、双眸は相手の挙動を一瞬でも見逃すまいと、鋭い眼光を放っていた。
遠く離れた位置で息を呑んでいる巳影、紫雨は言葉を失っていた。
すでに、堂内の気配が変質している。のしかかるような重たさが体を押さえつけ、吹く風は微風であろうとも、水飴のようになった空気を押しのけ、体へとのしかかってきた。
息苦しく、喉にまで密度のある空気がぬらりと、舌の上を乗り上げて入り込んで来るような……そんな錯覚さえ感じてしまう。
「あ、あの……『殺意』って……」
紫雨が咳き込みながらも、声を押し出した。
「ただ気持ち一つでこんなにも……変異するんですか?」
言う紫雨は涙目になりながらも、なんとか声を出そうとしている。それに対し、巳影も主苦しい空気の中、やっとの思いで声を吐き出す。
「そんな単純なものじゃないよ……程度の差はあれど、誰だって人間、カッとなる時はある……でも、これはそんなもんじゃないんだ」
足腰に力を入れて、なんとか立ち上がる。巳影は額から流れる汗を拭いながら、重たい息をついた。
「決意と覚悟を超えたスイッチが……あの人の中で入ったんだ」
「……なんですか、そりゃ……」
いまいち理解できてない紫雨との会話が、来間にも届いたのだろう。来間は声だけをこちらに向けて言った。
「君にはピンとこないかな。目の前にいる俺には、どっすりと届いているんだけどね」
軽口にも聞こえる言葉だったが、来間の目は笑っていなかった。
「瞬間的に湧く『殺意』も立派なエネルギーさ。その分コントロールは難しく、痛ましい事件事故が多く起こっているよね。でもその噴き上がる意思をすべて自分で制御できたとしたら……どれだけの力となるだろうね」
視界に清十郎を捉えながら、来間自身は前に出る機会を伺いつつ、巳影たちへと言葉を向けていた。
「それに「殺す」なんて言葉、簡単に口にできるものだけど……そこに意思をもたせることは誰にだってできるもんじゃない。君たちだって、敵対しつつも俺を殺すつもりまではなかったろう? 戦闘のさなかでも、どこか心の中のブレーキが働いていたはずだ」
「そ、そりゃあ……」
来間に言い返そうとした紫雨だったが、すぐに言葉を途切れさせてしまった。巳影もまた、何も返せないでいる。
「それが正常であり常識なんだ。甘いとか冷徹じゃないとか、そんなレベルじゃない。人が人の形を保っている証なのさ。だから今の彼はさながら「人間じゃない何か」……つまりは」
ひたりと微動だにしない太刀の切っ先を構え、清十郎は靴底をこすりながら、徐々に前へと出ていく。
「まさに「鬼」ってところなのかもね」
来間のモーションに無駄はなかった。体とともに、足が刀を運んで前へと押し出される。しかし、その突きも太刀がわずかに上へと持ち上がっただけで、簡単に弾かれてしまった。その一方清十郎はほとんど動いていなかった。だが、足元近くの瓦礫が吹き飛ぶほどの踏み込みを、わずかミリ単位で行っている。
その足が、大きく床から弾かれて前に飛び出した。切っ先が高く上がり、しかし清十郎の手元はほとんど動いておらず、腕を押し出すような形で唐竹割りが繰り出された。
頭上を襲う一撃を、来間は横に回避した。刀はいつの間にか弾かれた勢いから開放され、地面と水平に刃を滑らせる。それは踏み込んだ清十郎の足を狙った一閃だった。
が、下に落とされたはずの太刀は刀身を半回転させた。まるでゴルフのスイングのような斬り上げに、来間の刀はあっさりと弾き返される。
来間の刀は、本人の腕ごと上へと持ち上げられた。腹部ががら空きになる。だが、来間は体にかかった衝撃を勢いに変え、足を蹴り上げる。即座に飛び上がった体は宙で反転し、着地時に飛び下がることで、来間は清十郎の間合いから脱出する。
「今のはヒヤリとしたけど……追わなかったね」
清十郎は変わることなく太刀を正面に構えたままだった。その姿に来間はわずかに眉を寄せた。
「追わなかった、じゃなくて……追えなかったのかな。例えば……限界が近づいている、とか」
来間は刀をぶらりと下げ、足を左右に開く。そこへ、じり……と、清十郎のつま先が這うようにして近づいた。
「これだけの『殺意』……果たしてそう長い時間、体に宿らせていられるかどうか」
木張りの床がめくれ上がる。清十郎が踏み込んだと同時に突き出した太刀の切っ先が、ギリギリで後ろへと下がった来間のスーツをかすめた。来間は離れた勢いをそのままに、再度後ろに飛ぶ。そこを、横薙ぎの太刀が通り過ぎた。
「精度が落ちてるよ」
太刀が過ぎ去ると同時に前に出た来間が、刀……を握った右手で、清十郎の腹部を突き刺した。鈍く重い衝撃音が響き、清十郎は腹を折って膝をついた。
背中をさらした清十郎めがけ、来間は右腕を引き、斜めへと刀を突き下ろす。
その切っ先は、前に転がることで回避した清十郎の影を刺す。清十郎は起き上がると同時に太刀を押し上げるものの、来間は体を開くことで太刀の接近をやり過ごし、真横をさらす清十郎の足へと力の入った蹴りを打ち込んだ。
太もも部分に蹴りを受けた清十郎は、足の中に生まれた鈍痛に引きずられるかのように、大きく態勢を崩してまたしても膝をついた。
「本当に限界みたいだね。動きが雑になってきてる」
体を重く包んでいた空気が、次第に軽くなっていく。息をすれば喉を押すようなぬめり気は、乾いて蒸発し、難しかった呼吸を元のリズムへと戻していった。
震える足で立ち上がった清十郎であったが、もう太刀にはギラついた輝きが灯っていなかった。持ち上げた顔は土気色をしており、食いしばった口元からは血が顎先へと垂れていた。
「……『殺意』は一級品でも、肉体まではそうじゃないみたいだね」
刀を低く構える。来間の顔には、余裕と愉悦を入り混じらせた微笑が戻っていた。




