69:エクスペリエンス
「やあ、来たね」
時刻は昼の手前ごろ。やたらと肌を冷やす低温がこもる廃寺内へ、巳影と紫雨は足を踏み入れた。二人を迎えた来間堂助は、大きな赤い結晶を背にして、芝居がかった調子で手を振った。
「おや、君たちだけかい?」
「僕らも忙しーんですよ」
相変わらずの笑顔のままで言う来間に、紫雨は皮肉を込めて返した。
「ししろさんや切子さんには、別のところへ向かってもらってます。ここは俺たちが……でも、その前に」
一歩前に出て言う巳影を、来間は「なんだい?」と笑みのまま迎える。
「あなたは『茨の会』に協力を……つまりは、この町をめちゃくちゃにしようってことに、何故加担するんです」
「言ったじゃないか。得物がほしいんだ。新鮮で、斬り応えのあるものがほしい」
「あ、あなたは……!」
さらりと言った来間に憤るも、もどかしい気持ちと相まって、巳影はうまく言葉を返せなかった。唸るままの巳影を見て、来間は「ああ、なるほど」と頷く。
「一度でも一緒に行動した人間を、簡単に敵だとは思いにくいわけか。甘いところがあるなあ。そこは割り切らなきゃ」
巳影は来間の微笑に何も返すことができず、ただ首を振って拳を構えた。顔には、苦虫を噛み潰したような、迷いや葛藤がわかりやすく出ている。
「そいつらなら早く潰したほうがいい」
崩れかけている元本堂の壁から、一人の少年が姿を見せる。冷えた瞳が巳影と紫雨を捉えるものの、歯牙にもかけない様子で壁に背を預け、両手はズボンのポケットへと入った。そこからは、少なくとも戦いに参加するつもりではない意思が見えた。
「高橋は何度か煮え湯を飲まされてるからな。油断は禁物だ。それに」
少年……桐谷は山道へと視線を向けてつぶやいた。
「ここに向かっている者の気配が一つ、近づいてきている」
「へえ……誰だろう、大場くんかな?」
桐谷が見やる方向へ顔を向けた来間は、無造作に腰の刀を抜き、寸前まで迫っていた霊気の糸を刈り取った。が、斬れたはずの糸は瞬時に再生し、意思を持つかのように刀を持つ来間の右手へと巻き付いた。
「あのさ、僕はそういう「しがらみ」っての大嫌いだから、遠慮なくやるよ」
巳影の隣で『悪性理論』を展開した紫雨は、巳影を一瞥する。
「敵でしょ。気遣ってどうするんすか」
「……。そうだな、ごめん」
巳影はうなだれかけていた顔を上げると、拳に火柱を立ち上らせる。「よし……っ」と鋭く呼吸を吐くと、巳影は真正面から来間へと距離を詰めた。突っ込んでくる巳影へと構えを取ろうとするが、右手に巻き付いた霊気の糸『悪性理論』は簡単にほどけなかった。
「神木紫雨くんだったっけ。いいね、君とは楽しくおしゃべりできそうだ」
右手に絡まる糸を、空いていた左手がそっと撫でる。それだけで、きつく縛られていた糸はあっさりと内側から吹き飛んだ。
「こいつ、剣技以外で何か隠し持ってる……!」
紫雨が四散した糸から感じ取ったものは、怖気にも似た不快感だった。糸の再構成が思うようにいかず、紫雨は舌打ちして糸そのものを下げた。
同時に、前に出た巳影の右拳が来間に向けて放たれる。しかしそれは、来間のバックステップで簡単に距離を取られて回避された。巳影は来間を追って、続けざまに左拳を前に出す。
間合いには入り込んでいた。左拳は追い突きとなり、下がった来間の胴めがけて伸びる。
同時に、踏み込んだ足が強い力で外から払われ、巳影は大きくバランスを崩してしまった。目の前には鞘を左手で逆手に持ち、微笑む来間がいた。
来間の右手が弧を描いて、刀を握ったままの拳が巳影の頬を撃ち抜いた。
「!?」
「剣を持ってるからって、殴らないとは言ってないよ」
振り抜いた右拳を大きく上げ、たたらを踏む巳影の頭部めがけて、刀の柄を落とした。
激痛は揺らいだ視界を更にブレさせた。巳影はそのまま手をつくこともできず、床へと倒れ込む。
来間は刀を返し、刃を真下へと突き立てた。だが、狙ったはずの巳影の背は、引きずられるようにして後ろへと引っ張られた。巳影の手足には、霊気の糸が絡みついていた。
紫雨は『悪性理論』で巳影の体を絡め取り、強引に後ろへと引っ張る。その勢いを利用して、巳影はすぐさま立ち直り、態勢を立て直した。
「ごめん、助かった」
「力仕事できる能力じゃないんですから、二度とやらせないでくださいよ」
紫雨の呼吸は若干乱れていた。文字通り、巳影を力任せで引っ張り上げたのだろう。
「しかし……」
どう攻めるか。態勢を立て直せたとはいえ、突っ込んだところを冷静に迎え撃たれた。同じ手段で、相手に攻撃を入れるビジョンが浮かばなかった。特に正面からは挑みにくい。
相手の来間はというと、こちらを追いかけることはなく、笑みを浮かべたまま立っていた。その佇まいからは、圧倒的な余裕が見て取れた。
「どうしたの、攻めてきていいんだよ」
優しく言う来間の表情は、穏やかなものだと言ってよかった。その様子が、攻めあぐねる巳影にプレッシャーをかけていく。
(踏み出しても、踏み込んでも、拳が届く気がしない……!)
たった一合をあわせただけだったが、まるで暖簾か柳かを相手にしているような気分になった。
隣の紫雨も同じく、仕掛けるタイミングを図ってはいるものの、すぐ行動に移そうとはしていなかった。額に浮かぶ汗が、紫雨の焦りを物語っている。
出るに出られないでいる巳影と紫雨を見やって、来間は苦笑する。
「危機感を覚えられるだけでも大したものだよ。君らはそれなりに強い。でもね……俺と比べるとちょーっと、実戦経験の差が出ているね。それが戦力差にもなっているんだよ」
つまりは。と刀を下げて、来間は無造作に距離を詰めていく。
「超えてきた場数が違うんだ。何十、何百という戦いを経て、俺は今君らの前に立っている」
一歩前に出た来間に押され、巳影と紫雨は威圧を受けて後ろへと下がった。
「斬って来た得物の数も違う。何十、何百と霊魂や妖魔妖物を斬り刻んだ。まあ……だから、普通の相手には飽きちゃったんだけどね」
おどけた様子で言う来間の目は、影よりも深く濃い淵の底をのぞかせていた。
落ちれば二度と戻れない。そんな暗い瞳だった。




