65:イノセンスの代価
「どうだ」
「捗っていますよ。ただ……あと一度実験をしたいところですね」
「ならば調達してこよう。すでに居場所はわかっている」
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あれから。大場清十郎が『天静院』から姿を消して一週間になる。
今や巷に物騒なウワサ話はなくなり、もうすぐ訪れる五月の連休に向けての話題が定番となっていた。
昼休みの校内でも、その話題の端々が耳に入ってくる。重なり合う談笑の騒がしさからから遠ざかるように、巳影は中庭のベンチに座り、昼食のパンをかじっていた。
「……どうしてるんだろう、大場さん……」
ボソリと呟いて、パンを一口食む。
『土萩町管理組合』は、大場清十郎とともに消えた「鬼」の行方を探っている。来間から聞く限り、まだ手がかりも見つかっていないということだった。
パンを咀嚼し、飲み込み、息をついた。ため息を紛らわせたかった。
『後悔か』
ずず……と、脳髄を擦るような振動を伴って、頭の中の獣が呟いた。
「ベタニア……ここのところ、大人しかったじゃないか」
頭の中の住人の声を、久しぶりに聞いた気がする。
『満ちていたからな』
「満ちていた……?」
オウム返しに言うと、獣は低く笑った。
『常に力を開放し、生死の狭間で凌ぎ合う、死闘の連続。実に充実していた』
「物騒なヤツだな……」
食べかけのパンをもう一度かじろうとしたが、その手は口元まで上がらなかった。力なく膝の上に手を置き、首を小さく横に降った。
「後悔してるとして……でも、他に何ができただろうか」
もう、後悔したくねえんだわ
清十郎の言葉と顔が脳裏によぎった。笑っているような、泣いているような、疲れ果てたような、諦めたかのような……その胸中は伺いしれない。そこにどんな言葉が適切だったか、いくら考えても正解と思えるものは出てこなかった。
『迷えば心は濁る。私の力を満足に引き出せなくなれば、私も困る』
「……スパルタだな」
『挽回したいのなら、待てばいい』
獣から嗤っていたような気配が消えた。それに思わず「え?」と声を漏らしてしまった。
『あの「鬼」からは、私に似た気配を垣間見せた』
「鬼」。清十郎が抱えて行った『暗鬼』のことだろうか。
『何故かまではわからない。だが、このまま消えてなくなることはないだろう』
「不穏な事を言うな……どういうことだよ」
『近いうちにまた、あの「鬼」は現れるだろう。そんな気配がする』
ばさり、と頭上でカラスが一羽、羽根を強く羽ばたかせて空へと登っていった。それにつられて見上げた空は、間の抜けたほど晴れた空だった。
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慣れない夜勤の仕事で抱える疲労は、今までの怠け癖を実感させるものだった。しかし贅沢は言えない。今はそれ以上に大切なものを抱えることができたのだから。
「よう、帰ったぜ」
都会の隅。窓からは土萩町を囲む峠を見ることができる、二階建ての安アパートは、お世辞にも快適な居心地とは言えなかった。建付けは悪く、窓が開きにくなったり、どこからか隙間風が吹く音が聞こえたり。風呂場とトイレは各部屋にあることが救いだった。しかしお湯の加減を調整することが難しく、何度かやけどしそうにもなった。
六畳間の部屋と備え付けの流し台にガスコンロ。どれも年季の入ったものだった。前に住んでいた住人から使い回されたものなのだろう。
清十郎は玄関から上がると、布団の中で眠る少女の側に座り込んだ。その気配に少女は気がついたのか、閉じていた目をゆっくりと、しかし力なく開ける。
「寝てていい。腹は空いてないか」
少女の髪を撫でて言う。少女は少しくすぐったそうに目を細め、小さく頷いた。その口元が、かすかにほころぶ。それを見るだけで、清十郎の体に染みた疲れはすっと消えていった。
あれから一周間。訳アリの人間が転がり込める住まいに飛び込んだ。生活するために賃金のいい夜勤の仕事をこなし、早朝に戻る。そんな生活サイクルはまだ身につかず、清十郎の顔には疲労の色が濃く落ちていた。
「おにいちゃん」
か細い声が、少女の唇から漏れる。どうした、と顔を覗き込むと、震える手がそっと清十郎の頬を撫でた。その手をとり、自分の顔にも手が触れた事により、今どんな顔をしているかを自覚できた。
「……俺なら大丈夫だ。体力には自信あるしな」
そう言って少女の額を撫で、心配そうにこちらを見る目に力強く頷いて見せた。
「お前が元気になったら、遊びにでも行こう」
か細い手は、日に日にやつれていく。肌は土気色で、栄養のあるものを食べやすくして与えても、回復する見込みは立たない。
この部屋にいついた当初は不安からか、口を開いてくれていたが、今は時折清十郎のことを呼ぶ程度で、もう布団に横たわってから三日を過ぎていた。
自分たち人間とはやはり勝手が違うのか……しかし、清十郎は諦めていなかった。できうる限りの力でやれる限りのことをやる。自分の身を削っても、可能性があるならそれに尽力した。
「おにいちゃん」
まぶたを閉じたまま、少女の力ない声が、近くを走る電車の音で掻き消えそうになる。
「どうした」
それを聞き逃すことはなく、清十郎は小さな手のひらを握り、答える。
「またお話、聞かせて」
「もちろんだ。昨日はどこまで話したっけな……」
幼い頃、ともに過ごした夜を思い出す。ささやかな語らいは、少女の心を満たしていくのか、昼すぎともなると、彼女は目を閉じ、かすかに寝息を立てて眠りにつく。
穏やかな寝顔を眺めながら、清十郎は苦笑し、大きく出たあくびを噛み殺した。
自分も少しは休もうか。折りたたんだ布団を少女の布団の隣に敷いて、横になる。体は鉛のように重く、意識はすぐに眠りへと沈みそうになった。
寝転んで放り投げた手に、そっと微弱な体温が重なった。少女の手が、清十郎の手をつかまえている。
「わりぃ、起こしたか」
「……ううん」
少女は小さく首を振って、寝返りをうった。横たわるこちらに顔を向け、握る手に少し力を込めた。
「えへへ……」
照れくさそうな笑みを浮かべた後、少女は再び眠りに着いた。
「心配すんな。もう、離さねえよ」
小さな手に自分の手を重ね、清十郎も眠気に身を任せた。不慣れな生活での疲労は、瞬く間に意識を沈めていく。
故に、初動が遅れてしまった。
吹いてくる隙間風が、春の陽気から真冬のものに変わり、窓には一瞬で結露が張り付いた。
泥のような安らぎから意識を引き抜き、清十郎は本能のままに力を振るう。
「この「鬼」は借りていく。『土萩村』に必要らしいんでな」
拳が突き刺さった腹部に、凍てついた熱が咲く。手に握った太刀は空を切っていた。
膝を着いた清十郎は、歯を食いしばって顔を上げ、侵入者を睨みつける。冷え切った室内よりもはるかに冷めた相貌を持つ少年は、その腕にぐったりとした少女を抱えている。
「て、てめえ……! その子をか、返せ……!」
「それはできないが、お前の命だけは見逃してやる。……見るに耐えない不憫さだ」
少年は清十郎のうめき声にそう答えると、寒風とともに姿を消した。窓は枠ごと吹き飛んでおり、追おうとした清十郎は足をもつれさせ、転倒する。腹部に受けたダメージが清十郎の意識を削り、闇の中へと引きずり落としていく。それでも伸ばした手の先には、あまりにも間の抜けた青空が広がっていた。




