58:夜話を偲ぶ
封印を破ったことは、何故か大人たちにはさとられなかった。即席の、完成度の低いものだったからか。理由はわからない。
ただ。
「おにいちゃん」
人目を忍んで、夜を狙って廃寺を訪れる。そこには、こちらを「おにいちゃん」と呼んでくれる少女が待っていた。
最初は怯え、震えていた。何をすれば心を解きほぐすことができるのか……。少年清十郎は、まず自分を知ってもらおうと考えた。とはいえ、大層な履歴など持たない。話せるとすれば、自分の身の回りにあった他愛ない出来事だけだった。
時にはおどけ、時には大げさに、時には多少の誇張をつけつつ。足を運ぶたび、話していく……一方的に話すだけだったが、彼女の関心を少しずつもたせることができてきた。
「今日は、どんなお話?」
今では、こちらの話を楽しみにしてくれている。大した話でもないのに、真剣に聞いてくれる。話す自分にも熱がこもった。そうして、ついに笑顔を見ることに成功した。
□□□
夜気を染み込ませた廃寺は、小さい頃の記憶と変わらない姿だった。朽ちかけ、崩れ落ちそうな天井に、無数の札が貼られた壁。本堂とされる位置には、太く大きな柱のようなものが建てられている。清十郎は手にしたジッポライターの明かりを頼りに、腐りかけの床を踏み抜かないよう、慎重に歩を進める。
柱の手前には、普通のサイズのものよりも太く頑強であろうしめ縄が転がっていた。本来ならば、柱に巻き付けられていたものだろう。だが、今は焼き切られたような焦げ目を残し、分断されて床へ身を沈めていた。
ジッポライターの明かりをかざし、柱を見上げる。その柱には無数の札が貼られているものの、どれも漂白されたかのように真っ白になって、色を失っていた。札としての機能はもう、働いていないだろう。
その柱の根本には、ぽっかりと空いた穴があった。柱の表面は、まるで内側から高熱であぶられたかのように、外へ外へとめくり上がっている。しゃがみ込み、ジッポライターの明かりをその穴に近づけた。そこで、指でジッポライターの蓋を締め、周囲を闇で溶かす。
「誰だ」
清十郎は立ち上がると、がらんと広い院内に声を響かせた。
「誰かいるのはわかってるぞ。隠れてないで、出てきやがれ」
清十郎の物静かな、しかし険しく尖らせた声に、小柄な人影がゆっくりと歩いて姿を見せた。
「物騒な声ださんといて。ウチやウチ。相澤ししろ」
両手を上げて物陰から現れたししろに、清十郎は小さく息を落とす。
「何やってんだ、こんな時間にこんなところで」
「あんたは確かめに来ると思っとったからな。待ってたんや」
そう言うと、ししろは手に持っていた小型のライトで柱を……第五の『独立執行印』を照らしあげる。
「どう見る?」
ししろの視線は、開けられたであろう穴へ向けられていた。
「夕方見たときは、ついパニクってもうたけど……もっとよく観察する必要があるな、と思っとった」
清十郎はしゃがみ込むと、柱の内側からめくれ上がった表面を凝視した。
「もともとこの『独立執行印』が不安定な状態やって組合から聞いてたんやけど……どう不安定なんか、具体的な前情報は知らんままや」
清十郎はししろの言葉を聞きながら、視線を穴の曲線に添わせて根本へと落としていく。
「何が原因で不安定になったかも、よくよく思い起こせばそれらしいことは聞いとらん」
「……いいのか。お前の爺さんを疑ってるって言ってるようなものだぜ」
立ち上がると、清十郎は煙草を取り出し、火を付ける。
「完全には信用ならん。不自然な点があるかぎり、下駄を預けるわけにはいかん……身内やからこそ、や」
真っ直ぐに清十郎を見て言うししろに、清十郎は「わかった」と頷き、天井へ向けて煙を吐き出した。
「ここに封印されてた「鬼」は、自ら外へ出たわけじゃねえ」
「根拠は?」
「……あいつに、封印の外へと出る理由がねえからだ」
ししろは押し黙る。思い当たる節が……懸念が、的中してしまったかのように。
「となると、あいつは連れ出されたと考えるべきだ。目的まではわからねえが……『独立執行印』を破って、何らかの得をする連中がいるのかもな」
ししろは腕を組んで、「そんなところやろな」と吐き捨てるように呟いた。
「あんたは『茨の会』って……知っとるか」
「いばらのかい……?」
「詳しくは後で話すけど、『独立執行印』を破って回っとる連中や。目的はようわからんけど、あの高橋京極まで抱き込んで悪さしとんねん」
「高橋京極……でかい名前が出てきたな。一体、俺が呆けてる間に何があったんだ?」
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「村興し、なのだがなぁ……」
廃寺が望める木々の枝に止まる雀は、目をパチクリとさせていた。
「そろそろ種明かしでもしますか?」
隣の枝に止まっていたホトトギスは、くちばしで羽根を手入れしていた。
「あの老人たち、どうやら「逃げられた」ようですし……いっそ彼らを取り込むというのも」
「まあ今は老人たちに期待しよう。せっかくの機会であるからな、一期一会と終わるには、さみしいではないか」
雀は小さな羽根で空気を打ち、夜空へと飛び立った。ホトトギスもまたそれを追うように、羽を広げて木々から離れていった。




