55:逃避の果てで
大きなミス。
町中に散っていた三体の『飛頭蛮』の内、一体が路地を抜けて町外れへと出てしまった。バス道へと出た『飛頭蛮』を、巳影はなんとか退治することができた。だが。
「お、お前はナニモンだ?」
見られた。『飛頭蛮』も、それを退治する瞬間も、全く無関係の人間に見られてしまった。それが何よりも大きなミスだった。
(まずい……ど、どうする?)
目を白黒させていたのは、二十歳ほどの青年だった。大学生、だろうか。口には煙草をくわえている。
(なんとかごまかさないと……これがきっかけで「うわさ話」が広がったら、キリが無くなる!)
「えーと、話すと長くなるんですが……」
落ち着いていれば、作り話の一つや二つできそうなものだが、動揺が物事の整理を邪魔していく。
巳影がもたついていると、青年は「い、いやいや」と次の言葉を並べていく。
「普通の人間が「アレ」を……『飛頭蛮』を片付けられるわけがねえ……ナニモンだよ、お前」
忙しくパニックに陥っていた頭の中が、瞬時に凍りついた。急停止した思考に体が追いつかず、巳影は「え」と間抜けた声をもらした。
今確かに。この青年は異形の影を見て『飛頭蛮』と言った。
「なんでそれを知って……」
目が点になる、とはこのことか。だが、それは何故か相手も同じ様子だった。こちらを見る目は点になっている。
「聞きたいのはこっちの方……」
呆然としていた青年の目が、一瞬で険しくなった。
「後ろだ!」
青年が叫ぶと同時に、巳影の嗅覚は溝の底に漂うような、ベタついた腐臭を嗅ぎ取っていた。『飛頭蛮』が持つ腐臭、と頭が理解する前に、体が先に動いた。
振り返る。そこには、長い四肢を広げてこちらを覆いかぶさろうと飛ぶ、『飛頭蛮』の姿が眼前に迫っていた。
迎撃は、間に合わない。
「下がれ!」
体が強い力により引っ張られた。地面へと倒れかけた巳影の視界の中で、先程の青年がかばうように立っていた。『飛頭蛮』は獲物なら何でもいいのか、広げた鋭い爪を青年に向けて振りかざした。
「顕現!」
一喝。
青年が発した言葉は、尻もちを着いた巳影の体に、電流のような衝撃をほとばしらせた。全身の毛穴が広がり、総毛立つ。
目に入ったのは、真っ二つにされて消滅していく『飛頭蛮』……ではなく。青年の右手に握られていた、蒼い光沢をまとった刀身だった。
「大丈夫か?」
青年は振り返ると、巳影に向けて手を差し伸べた。だが巳影は、青年の右手で輝く光に目を奪われ、呆けていた。
いつの間に……いや、どうやって。青年は何も持ってはいなかったはずだと、様々な疑問が一気に押し寄せ、際限なく頭の中を巡っていく。
だが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。パニックになっているというのにも関わらず、心のどこかでは、影を切り裂いた蒼い光に見とれている自分がいる。
(……綺麗だ)
上着の裏ポケットに入れているスマートフォンが、着信音を鳴らしている。巳影が我に返った時、スマートフォンの着信履歴には四回も「柊切子」の表示が並んでいた。
□□□
大きなミス。
混乱の最中とはいえ。とっさのこととはいえ。
(……やっちまった……!)
考えるよりも先に、体が動いていた。そして体は、長年染み付かせていた「動作」を、いともあっさりと思い出していた。
大場清十郎は、血の気が引く思いで、右手に握ったものを見る。
月明かりとは違う、濡れたような蒼い光沢を持つ、一振りの刀。「それ」を握ることはもうないと思っていた。少なくとも、二度と使うまいと、諦観の念の先に捨てたはずのものだった。
一方少年は、尻もちを着いたままで、こちらを……自分の握る「それ」を見て呆けていた。先程から鳴り響く、スマートフォンから呼び出し音にすら気づいてない様子だった。我に返ったらしい少年は、慌ててポケットからスマートフォンを取り出して話し込む。
(どうする……)
どうやら、何かしらの緊急事態ではあるようだ。少なくとも、『飛頭蛮』などといった怪異が現れ、それを退治する人間……それも、まだ高校生と思しき少年が行っていた。
理由と事情は、山程ありそうだ。それにこの少年には、見覚えがない。「関係者」になりそうな年頃の人間なら、ある程度は顔を覚えている。幼い頃は、よく一緒につるみ、遊び回ったものだ。だが彼は、記憶の中の誰にも一致しない。
つまりは、予想以上に厄介なできごとが、知らぬ間に起こっていると仮定していい。
(冗談じゃねえぜ……今更、俺に何しろってんだ)
何ができるというのだ。逃げ出した人間に、一体何が。
「あ、あの! 退治はできたんですけど、助けてくれた人がいまして……って、あれ?」
後ろで少年が素っ頓狂な声を上げたのを、背中で聞く。清十郎は無言で立ち去ろうとしていた。だが、少年の脚は早く、簡単に追いつかれてしまう。
「いきなりすみません。俺は飛八巳影といいます。あなたは……というか、あの剣みたいなものは……」
少年、飛八巳影は視線をキョロキョロと飛ばしている。もう「納刀したあれ」を探しているようだ。
だが答えてやる必要もない。無視して清十郎は歩き出し、飛八巳影は前へと回り込んできた。清十郎はため息をつく。
「さっき見聞きしたことは忘れてくれ。俺もお前の事情を聞いたりしねえ」
「え……」
「……二度と関わりたくねぇんだよ、この町の厄介事に」
それだけを呟くと、少年は開きかけた口を閉じ、こちらに一礼して走っていった。どうやら察してくれたらしい。
自分はといえば。このまま帰って寝て。明日には都会へと戻るだけ。いつもどおりの、苦痛のないだらけた時間を退屈に思うだけの日々に、戻るだけだ。何者でもない、何者にもなれなかった自分を慰めるだけの。
「クソだせぇな、俺……」
スマートフォンから音楽でも聞きながら歩こう、そう思い取り出したものには、多数の不在着信の知らせが並んでいた。母親からの着信がいくつか。そして『土萩町管理組合』の名での着信履歴が表示されている。
「新山のじいさんか? 折り返さないと面倒くさそうだな……」
コールは1つ目が終わる前に取られた。「もしもし」と電話口に出たのは、新山の取り巻きの一人だと声でわかった。
「もしもし、大場です。すんません、法事の時からミュートにしてたんで気づかなくて……」
「そんなことはどうでもいい」と、返ってきた声は焦りを含んでいた。その声の後ろでは、いくつもの怒声怒号が飛び交っている。
『確認する。貴様、『天静院』に行ってはいないだろうな』
耳に入ってきた名前に、呼吸が止まった。取り巻きの男の声は、無理やり平静を装ったものであった。
『第五の『独立執行印』が破られているのが確認された』
指の間から、煙草がこぼれ落ちた。
「ちょ……ちょっとまってくれ。『独立執行印』が、破られてる!? なんだってそんなことに……」
『説明している暇はない、すぐ戻れ。「鬼」が出ているおそれもある……ならば、大場家の役目を果たすんだ』
通話は一方的に切られた。
「なんだよ、言うだけ言って……わけわかんねえ……ッ!」
清十郎はスマートフォンをポケットにねじ込むと、来た道を駆けていった。
「何が役目だ……くそったれ!」
清十郎の叫びは誰に届くこともなく、夜闇の中に溶けていった。




