54:暗い気配
土萩町北部の山道。付近にはバス停はおろか民家さえ姿を見せず、荒れた地と空風が吹くだけの、荒涼とした区域だった。登山用には開けていない山道は、知らない者にとっては道とも見えない。
「相澤さん、ほんとにこんな場所にあるんですかぁ?」
枝や背の高い草を避けながら、紫雨は不平不満に口を尖らせていた。前を行くししろは慣れた様子で歩いていく。
「北部の山の中腹に、廃寺があるんや。そこに第五の『独立執行印』が設けられとる」
「中腹って……具体的にあとどれぐらい登れば着きます?」
「体力ないウチでも行ける距離や、黙って着いてきい。あと十分もないさかい」
紫雨はうめきながらも歩を進める。
「調べるのに紫雨の能力がいる。一体どういう具合に、第五の『独立執行印』が不安定なんかっちゅー、あやふやな状況を調べるのにな」
「目で見るまで信じない、と」
「不安定やなんやっちゅう情報は、じいさんたち『土萩町管理組合』からしか聞いてへん情報や。……正直真に受ける気にはなれん」
草木を割って坂を登ると、視界が開けた。鬱蒼と茂る木々の間を、今までの獣道とは違う、きちんと舗装された土道が走っていた。
「やっと着いたんですか? 僕もうクタクタに……」
へばりつつある紫雨の唇を、ししろは人差し指でおさえて「静かに」と短く呟いた。
草地の中に身を潜め、ししろは舗装された道の奥へ目をやった。紫雨も黙ってしゃがみ込み、ししろの視線の先を追いかけた。
「……見張り?」
山道の果て。長く続く石畳の階段の手前に、黒いスーツで身を固めた男が一人立っている。山歩きには縁のなさそうな格好である。
「見張り、を出さなあかんような状態ってことやな」
紫雨はししろの言葉を聞きながら、見張りの男の後ろに続く階段を見上げた。かなり上まで、結構急な角度で続いている。
「さて、真正面から行って通してもらえるかどうか……」
ししろは草地の中で思案し、ブツブツと声を漏らしていた。
「というか。見張りが出ているぐらいなら、いくら相澤さんでも門前払いでは?」
「……せやんなぁ……やっぱリスクを負ってでも忍び込むしか……」
頭を抱えるししろに、紫雨は小さく息をついて言う。
「あそこを抜けたいだけなら、もっと簡単な方法がありますよ」
紫雨は人差し指から細い霊気の糸を作り出すと、それをヘビのように這わせ、黒いスーツの男の元へと伸ばしていく。
男は周囲に厳しい視線を飛ばし、警戒しているが、足元には注意が向いていなかった。霊気の糸はするりと男のスラックスの隙間に入り込んだ。次の瞬間、男はびくり、と身を強張らせた。厳しい目つきは和らぎ、とろんとしたものに変わっていった。
「少しあの人の体の中にお邪魔しました。今あの人は「レム睡眠」状態です」
これなら通っても大丈夫でしょう、と紫雨は得意げに言った。
「あ、あんたそんなんできるんか……」
「これも『悪性理論』の応用ですよ。でも、今は「ブースト」が乗っているからこそできる荒業なので、のんびりはできません」
ぼう、と立つ男の前まで来てみるものの、男はししろと紫雨の存在に気付いてもいない様子だった。男の口はだらしなく開き、かすかないびきとよだれを流している。
「どれぐらいであの人は目ぇ覚める?」
「保って三十分ぐらい、ですかね。単に神経を刺激して、眠気を促進させただけですから」
「……三十分か……まあ、ダラダラしとられへん。ちょうどええリミットや」
ししろと紫雨は階段を駆け上がり、息を切らしながら広い庭園へとたどり着いた。
「……『天静院』。ここは昔から……「土萩村」の頃からあるお寺や」
紫雨は呼吸を整えるがてら、周囲を見渡した。背の高い木々に囲まれ、もうすぐ夕方でもあるせいか、庭園そのものに影が張り付いているような印象を受けた。
その庭園も、永きにわたって手入れなどされておらず、庭だったであろう形をかろうじてとどめているだけで、様々な雑草が好き放題に広がっていた。
「本堂はこっちや。その中に『独立執行印』がある」
ししろの息はまだ乱れているが、当人に休む意思はないらしい。紫雨は黙ってししろの後へとついて行った。
飛び石が並ぶ道にも、雑草が詰め込まれるように生えていた。その道の先、木々でできた影の中に、背の低い寺がぽつんと建っていた。外見はどこでも見る寺といった様子で、やはり外壁や屋根は年季が入っており、一部崩れかけている箇所も見えた。
「……崩れたりしません?」
「大丈夫やろ、現に今も管理者が出入りしとるんや。修繕も……」
ししろの言葉がそこで止まる。ざざ……と、緩やかな風が木を揺らして音を立てた。
その音は風が空気に溶けていくまで続き、その後に空白のような沈黙が落ちた。
「静か……ですね。物音一つない。……人の気配も感じさせないほどに」
紫雨は上着のポケットからグローブを取り出し、指を通す。
「今、調査中なんですよね……ここ。見張りの人も入口にいましたし……」
「……」
「調査に来てるって人ら……どこにいるんです」
ししろは返事の代わりに地面を蹴って走り出した。紫雨も間髪入れずその後に続く。
観音開きの扉は開け放たれていた。そこから漂ってくるものは、鉄サビの臭いに似たものを含む、ひどく淀んだ重たい空気だった。
扉の奥、本堂の中央。太く、天井まで伸びる柱のようなものがそびえていた。本来ならば仏像や仏具が置かれる場所に建つそれは、何十ものしめ縄が巻き付き、無数の札が貼り付けられている……はずであった。
「なんだ、これ……」
柱の側まで駆け寄った紫雨が、床に落ちていたしめ縄の前にしゃがみ込む。太く、人間の腰ほどはある頑丈なしめ縄は、真っ黒に焦げ、焼き切られたように分断されていた。
それだけではない。柱に貼り付けられている札のほとんどは、真っ白に染まっていた。まで漂白剤を浴びたかのように、本来そこに書かれている文言は掻き消えている。
「相澤さん、これって……」
立ち上がり、柱の側にいるししろへと声を掛ける。が、ししろは振り向きもせず、柱の根本……ぽっかりと空いた穴の前で立ち尽くしていた。
まるで、内側から強い力で押されたように、柱の表面はめくれ上がっている。
「どこが不安定やねん……思いっきりぶち破られとるやないか……!」
ししろはスマートフォンを取り出すものの、電波状況は「圏外」の表示であった。
「くそっ! 紫雨、行くで! スマホが生きとるところまで走るんや! 第五の『独立執行印』はとっくに破られとる!」
言い切る前にししろは走り出して本堂を抜けた。後ろに続く紫雨は苦い顔のまま、一度だけ本堂を振り返る。
漂っていた臭いは、間違いなく血臭だった。だが、その臭いを垂れ流しているはずの主……倒れているであろう人間の姿はどこにもなかった。なぜか。
「……考えたくないな、もう!」
空は夕暮れを迎えつつあった。このまま闇夜が訪れるまで、あとわずか。




