05:処遇
時間の感覚というものが曖昧だった。時計の読み方も知らなければ、針の役割も知らない。
気に入らないことがあれば、殴る。蹴る。ペット用のケージに閉じ込められ、逃げ出さないようにと首輪をつけられた。いつ解放されるかは、「彼ら」の気分次第。
だが、逆らう気はなかった。逆らう、というものが分からなかったから、かもしれない。ともかく「彼ら」……『両親』というものは絶対の存在であり、ケージの中が世界のすべてだった。
それが崩れたのは、数年前。
時折『両親』という二人の男女が見せる、優しく温かいものがたまらなく好きで、その日も同じ温度の中、滅多に見ない「外」へと出た。
『父』という男が運転する車で出かける。『母』という女が隣で笑い、それを後ろから見ているだけで胸の中が溢れそうになっていたのを、覚えている。それをケージの中からでも、見ることができて、嬉しかった。
だが。次の瞬間には目の前が真っ暗になっており、激しい痛みで目が覚めた。真っ白な、見たこともない天井と、真っ白な、見たこともない人たちが右往左往している最中だった。
古いトンネルの岩盤崩落事故が、乗っていた車を巻き込んだという事実を把握できたのは、それからしばらく経ってからだった。幸いにして、ケージが身を守り、頭などを数針縫う程度の傷ですんだ。
その頃からだった。
頭の中で、声が聞こえ始めたのは。暗い暗い、底の見えない深淵から響くような、獣の声が。
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土萩北高等学校。通称「萩北」。昔は「南」もあったとのことだが、少子高齢化による学生不足で縮小、「北」に合併されたのだという。
土萩町の中を走るバスは二本だけ。町内をぐるりと回るバスと、峠を超え、隣町の都会へとつながるバスと。
学校から離れた公園前駅からバスへ乗っても、朝の時間帯であれば、乗客はほぼ学生のみとなる。
「あ、巳影くん」
そこそこ混み合っているバス内で、聞き覚えのある女子生徒の声がした。前の方で、見覚えのあるミリタリーコート姿が手を小さく振っていた。
「柊さん。おはようございます」
「切子でいいよ。その方が呼ばれ慣れてるから」
そう言われ、微笑む。巳影は若干照れくささを感じながらも、小声で「で、では以後それで……」と返した。
「朝はこの時間帯なんだね」
「はい、比較的のんびりすると。ひ……き、切子さんも、登校はこのバスなんですか?」
隣に立つと、少し見上げる形になった。今までドタバタして気が付かなかったが、切子はスラリとした長身だった。大きめのミリタリーコートのせいで、スリムなシルエットが隠れているだけのようだった。
「うん、まあ『オカルト研』に朝練はないからね」
切子は苦笑する。
「ねえ、聞きたいことがあるんだけど……昨日の続き。下校時間になって解散しちゃったけど、ちゃんと話したいことが、まだあるんだ」
笑みは携えたまま、しかし巳影を見据える目は、巳影の目を捉えて離さなかった。
「昼休み、部室に来られるかな。お昼ご飯でも食べながら、お話しよう」
「……はい、わかりました」
バスは高校手前の駅で停止し、ほとんどの乗客は降りていった。
自分の教室に迷わず着けた巳影は、目のあったクラスメイトたちと適当に挨拶を交わしながら席につく。
『どうするつもりだ』
そろそろ来るだろうと思っていた頭の中の声に、巳影は誰にも聞こえないほどの小声で返した。
「……どうもしない」
スマートフォンを取り出し、画面を適当にタップする。
「あの人たちでも『茨の会』に繋がらないなら……関わる必要はないし、変に迷惑をかけるわけにもいかない」
予鈴がなるにはまだ時間はあった。生徒たちの話し声で、巳影の言葉はかき消えていく。
「俺は、復讐するためにこの町に来たんだ」
獣が、鼻で笑った気がした。深淵に溶けて見えない巨体が、頭の中から去っていく。
ふと、窓の外を見た。通学路に並ぶ街路樹の桜が見えた。その枝に、一羽のホトトギスの姿が見えた。
「……?」
そのホトトギスは鳴くわけでもなく、何故かこちらをじっと見ているような気がした。だがこちらの視線に気づいたのか、すぐに羽を広げ、飛び上がっていく。
「何だか、嫌な感じだな……今の鳥」
空は晴れていたのに、また曇り空へと変わりつつあった。
「ちゅーわけで、いこか」
昼休み。
切子との約束は……すっぽかすつもりでいた。だが、チャイムがなり終わると同時に、体操服姿の相澤ししろがドアを開け、ずかずかと巳影の席まで入ってくる。
「あ、相澤さん……?」
「ウチさっきの授業体育やったから、着替えに戻るついでに持ってこいってな。自分、弁当は」
「あ、えと……持ってきてますけど」
「じゃあそれ持って、いこか」
相澤ししろは笑顔のまま巳影の首根っこを掴む。
「ウチも自分に聞きたいことまだ、あるしな」
「……」
どうやら、巳影が約束を反故にするつもりだったことは、お見通しだったらしい。巳影は観念して席を立ち、ししろに続いて教室を後にした。