43:窮鼠猫を噛む
「単独で敵陣に踏み込んだ、その勇気は認めますよ」
見通しの効かない闇の中で、高橋の声がする。紫雨は荒くなった息をそのままに、両手へと精神を集中させた。
眼前に迫った髑髏の武者が、ギラついた刀を大きく振りかぶった。
「……っ!」
紫雨は手のひらを突き出し、霊気の糸で作った壁を上に展開する。髑髏の武者が振り下ろした刀は、糸の集合体で出来た壁に阻まれるも、徐々にその刃を食い込ませていく。
一見拮抗しているように見える、死霊の攻撃と紫雨の防御であったが、紫雨は攻撃を弾くたびに大きく息を乱して、バランスも崩してしまう。
死霊の手が、素早い動きで引かれる。刀を持つ手を折りたたむと、今度は一歩踏み込みながら、刀の柄尻を糸の壁にめがけて打ち出す。
紫雨はのしかかっていた重圧が一度引かれる事により、足は前へと放り出され、たたらを踏んだ。その怯みを、髑髏の武者の攻撃が叩いた。柄尻の衝撃で壁ごと後ろへ転倒した紫雨は、慌てて起き上がるものの、息は更に乱れ、額には汗を吹き出し、膝はガクガクと震えていた。
「しかし……神木紫雨さん。あなたは圧倒的に、実戦不足です」
木張りの床には、紫雨の頬を伝い落ちた汗でシミが浮かび上がっていた。
「実際に、殺意を持った刃を向けられたことなんて、ないのでしょう」
ゆっくりと、足音が床の上を踏み、近づいてくる。
「……高橋、京極……!」
薄笑みを浮かべて現れた高橋を、紫雨は力の限り睨みつけようとする。だが、表情の筋肉はこわばってしまい、苦悶の表情を作っただけに終わった。
「せめて「高橋さん」と呼んでほしいですねえ。同郷の先輩ですよ?」
高橋は立つのがやっとという紫雨の前まで歩みを進めると、無造作に紫雨の細い体を蹴り上げた。紫雨はうめき声をあげ、腹部を抑えて膝を折った。
「で、どうですか。結界を解く方法をお教えしてくれる気に……なりましたか?」
高橋の視線は、暗闇に沈む先へと向けられた。紫雨は痛みでかすみだした目を、高橋が見た方向へとやった。
闇が剥がれていく。そこには巨大な不動明王にも似た木像が立っていた。その木像の足元、無数の数字が作る円で囲まれた、後藤力矢の姿があった。
「師匠……」
後藤は険しい顔で見えない壁を叩いていた。何かを叫んでいる。だが、声も壁を叩く音も聞こえない。数字により作られているものは、外部と内部を遮断する結界の一種であった。
「これ以上弟子がいたぶられるのを見ているのも、辛いだけでしょう」
高橋はまだうずくまったままの紫雨の髪を鷲掴みにすると、その頬を平手で叩いた。紫雨は力なく体を折って、倒れてしまう。
「ほら、早くしないと、お弟子さんが嬲り殺されてしまいますよ」
笑う高橋に、何かを咆える後藤だったが、声は遮断されているようで、振動すら届いてこない。それに耳を澄ませていた高橋は「そうですかそうですか」と満面の笑みを浮かべ、倒れた紫雨の体を踏みつけ、蹴り飛ばした。
横腹に高橋の足が突き刺さり、紫雨は声にならない悲鳴を上げた。体内で、嫌な音が響いた気がする。
「後藤さん、声が聞こえませんよ。ほら、もっと真剣に懇願しないと。ねえ」
紫雨の体が地面を跳ねるたびに、後藤は険しい剣幕で声を上げていた。しかし、後藤の周囲に刻まれた数字が、その声を遮っている。その様子をにこにこと見つめながら、高橋は、
「んー……何も聞こえませんねえ。まだお弟子さんを助ける気はないようですねえ」
高橋は仰向けに転がった紫雨の胸を、強く踏みつけた。またしても、紫雨は体の軋む音を聞く。
「……う、あ……」
紫雨は口を開こうとするものの、言葉は紡げず、蚊のなくような息を吐き出すだけに終わった。視界はぼやけはじめている。後藤に目を向け、紫雨は右手を伸ばそうとした。だがその肘に、高橋の足が落とされた。重くのしかかる闇の色に、鈍い音が響いた。
「おや失礼。うっかりと肘を踏んでしまいました。折れちゃいましたかね」
紫雨の右腕は、不自然な形で床に落ちていた。腕全体が痙攣し、指先はかすかに動く程度であった。その指先は、助けを求めるかのように、後藤の方へと向けられている。
ぐったりと地面に倒れた紫雨を見て、高橋は満足そうに微笑んだ。
「どうですか。僕としては、まだまだこれからなんですけど……後藤さん。僕らに協力してくれる気になりましたか?」
後藤へと向き直り、爽やかな声で高橋が言う。後藤は高橋を睨みつけたまま、強く歯を食いしばっている。
後藤の態度に高橋は嘆息をつきながら、肩をすくめた。
「強情な人ですね。僕は丁寧に紫雨さんをもてなしていますが、ここまで貧弱であると……そのうち「事故」が起こってしまうかもしれません」
後藤は何も答えない。口を開こうともしない。ただじっと、高橋を睨みつけている。
「……。気に入りませんね、その目。紫雨さん、そのうち死んでしまいますよ?」
高橋は倒れている紫雨へと目をやった。もう虫の息であり、立ち上がれる気力も見えない。できることと言えば、指先をわずかに動かす程度であった。高橋はため息をはくと、側に控えていた髑髏の武者から刀を受け取る。
「泣いて懇願するなら、今のうちですよ。そうしてくださいな。僕としても、刃物を使ってのお遊びは……ふふ、とても興奮してしまう」
刀を握った高橋は、改めて紫雨へと目を向けたその時。そこで初めて気がついた。
「……「糸」……?」
紫雨の指先から、かろうじて見える霊気の「糸」は、いつの間にか後藤の立つ結界まで伸びていた。その指が、わずかに動く。それはまるで、タイピングを行う指先の動きであった。
高橋が後藤へと振り返った頃には、もう遅かった。地面に書かれていた数字は、すべて「0」に書き換えられていた。紫雨から伸びた「糸」により干渉を受けた結界は、後藤の拳をやすやすと通し、内側から破裂するように四散した。
「なるほど、ラマヌジャンθ関数を利用した結界だったか。マニアックすぎるぜ」
首をほぐし、後藤は数字の円の外へと足を踏み出した。
「よく解読してくれたな、紫雨。少しはやるようになったじゃねえか」
紫雨は顔を床につけたまま、頬を引きつらせながらも、口元に笑みの形をつくった。




