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42:浮遊回廊

 時刻、午前四時。キャリーケースを引きながら、神木紫雨は郷土資料館の入口前に立った。

 箱物としてはやや小さく、一階建てであり、「口の字」型につくられている。展示スペースが中庭をぐるりと囲み、昔の民芸品や農家の道具などが並び、順路通りに回れば多くの書籍が収められたスペースへとたどり着く。

 資料館に向けて、手をかざす。黒いレース製のグローブからは、無数の「糸」が飛び出し、資料館全体に伸びていった。「糸」は自我を持ったかのように館内を縦横無尽に這い回り、やがて壁と壁の隙間から、中庭へと伸びていった。

 紫雨は目を閉じ、呼吸を深く落として、意識を集中する。館内すべてに伸びた「糸」は、かすかな「風」を感じ取っていた。

「隙間風……じゃない。気流?」

 その微風は、順路を回る道筋に沿って吹いていた。ぐるりと中庭の外を周り、最後は書庫へとたどり着く。順路の道中は、土萩村と呼ばれていた時代から伝わる品々が展示されている廊下を歩くことになる。品の中には、貧しかった時代を慰めるための民芸品や碑石のレプリカなども並んでいた。

 それらが、館内にわずかながらの「思念」を残していた。それはとても微量であり、俗に言う「霊感の強い人間」でも感じ取れないであろうものだった。紫雨が放った「糸」でようやく探知できたほどの、残滓である。

 それらは館内を循環し、かすかな「円」を作っている。「円状」に中庭を囲むように流れる気流は、どこか淀んだものであり、触れていてあまりいい気分にはならないものだった。

 それは、今の土萩町の空気にも似ている。大気がわずかにかすみ、喉にふれる空気はどこか埃っぽく、苦い。『疫鬼』が解き放たれた事により、普段なんでもない菌なども活性化し、病原菌へと結びつきやすくなっている。

 館内の空気は、それを更に濃くしたものに思えた。長くいては、厄介な風邪でも引きかねない。紫雨は仕方なく「糸」を解除しようと瞳を開き、資料館を見渡した。

「……待てよ……」

 中央の中庭を囲み循環する淀みは、最終的にどこへと行くのだろうか。

 その中庭には、なんの異常も感じ取れなかった。普通の日本庭園が作られているだけだった。その景色はパンフレットの表紙を飾っているものだ。

 だからこそ、おかしい。

 微量とはいえ、異質な空気が渦巻く空間のど真ん中にありながら、()()()()()()()()()()。庭園の土も、草木も水も、汚れてはいない。

 反射的に宙を仰いだのは、直感に従った結果だった。

「あれ、は……」

 まだ陽の光の気配が潜んだままの、薄暗い曇り空。そこに、夜よりも暗い空が、夜明け前の薄暗さに紛れていた。館内の中庭の、真上。空が、暗く黒く、えぐれている。

 もし雲が少しでも低い位置を流れていれば、すぐに包まれ隠れてしまうだろう。その落ち窪んだ黒い空の向こうには、光を失いかけている月が薄っすらと見える。

「資料館の上空に、異空間を作っているのか……? 誰が、どんな技術で……結界術だなんてレベルじゃない……」

 ゴクリ、と喉を鳴らす。紫雨は資料館から「糸」を戻し、はるか上空に向けて手をかざした。



□□□



 午前八時を少し過ぎた頃。

「……まだ眠いな、くそ」

 巳影はあくびを噛み殺し、重いまぶたを擦った。強烈な眠気を促すお香が、昨夜臭った焦げ臭さの正体だったと、巳影を叩き起こしたししろにより説明された。

「だけど……寝ぼけている暇はないか」

 郷土資料館の入口前。ドアノブには「閉館」と書かれた札が下がっている。パンフレットなどによれば、開館時間は午前十時からとなっていた。まだスタッフは誰も来ていないのだろう。それも、当然と言えた。

 入口前には、見覚えのあるキャリーケースが倒れて転がっていた。紫雨が引いていたものだ。

 周囲には人はいない。しかし、表の道路は出勤などで走る車の数が多くなっていた。路線バスも、本数は少ないとはいえ動いている時間帯だ。

 そんな中で、紫雨の姿は見当たらない。

 ひとまず、手分けして周辺を探している切子やししろに連絡するべきだろう。足取りはここで途絶えているというだけでも、知らせておかなくては。

 巳影はひとまず、横倒しになっていたキャリーケースを立て直した。レースなどで縁取られたそれに、目立った傷などはない。ドアの前には争ったような形跡もなく、物静かだった。

 その静寂の中、わずかな耳鳴りが空気を震わせた。巳影は何事かと振り返り、振動の元……ドアの下へと目をやった。何も変化は見せないが、耳に残る音は確かにある。表を行き交う車のエンジン音に紛れてしまうほどの微音であったが、感覚が……右目が、その違和感を捉えた。

 それは透明に近いほど細く、通常の肉眼ではまず確認できない。しかし、覚えのある感覚が「それ」から波打っている。

「紫雨の……確か『悪性理論』、とか言ってたっけ」

 初対面時に捕まった霊気の「糸」。何度でも絡みつき、相手を無力化させる結界術だった。その「糸」が、ドアの隙間から垂れていた。しゃがみ込んで触れてみると、それはまだ活力を残していた。

 「糸」はあっさりとドアから抜け出た。しかし、地面へ落ちることはなく、垂れ下がりながらも……上へ、とその身を伸ばしていた。

「……?」

 「糸」に沿って、行き先を見つめてみる。それは曇天の空に登っていた。

 朝日の光を遮る雲は、世界を灰色にしていた。「糸」はちょうど資料館の中心部の上空まで登っている。「糸」を軽く引いてみるも、まるで空高くに上がってしまった凧のように、雲の中に吸い込まれたままで、動かない。

 なにかある。巳影は右目に精神を集中させた。ぼんやりと、雪の結晶に似た紋様が、巳影の右目に浮かび上がった。

「……何だ、あれは」

 暗く広がる雲の奥に、更に濃く黒い「なにか」が見えた。「糸」を吸い込んでいるのは、その濃い黒色の「なにか」だ。それを更に、右目だけで凝視した。

「空に……穴が、空いてる……?」

 人間の本能か。巳影はゾッとする身震いを覚えた。

 深く、大きな……深海を思わせるような深く黒い空間が、雨雲の奥に広がっている。直径にすれば、目測でも十メートルはあるだろうと見えるほどの大きさだった。距離まではわからない。だが、雲の浮かぶ高さにあることは確かだ。

「まさか紫雨は……あの中に……」

 それしか考えられない。何よりその穴から垂れている「糸」が、その証拠だ。

 「穴」の深さは、文字通り底が見えない。得体も知れない上に、本能が頭痛を引き起こすほどの警鐘を鳴らしている。体は、まるで高い崖の縁を覗き込んでいるかのように、怯えて震えていた。明らかに、普通ではない。

 しかし。

「……『地獄門』開放……!」

 頭の中で、獣の巨体が身を起こした。黒い空に咆えると、鋭い牙をむき出しにする。

 体の震えが、内側から充実していく気力に抑えられ、握る手に力がみなぎった。

「無事でいろよ、紫雨」

 「糸」をしっかりと握りしめ、巳影は力の限り強く地面を蹴った。

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