40:その暗雲、嗤う
「昨日の今日で、逃げずにきたのは褒めてやるぜ」
『帰らず小道』の砂利道の上で、好戦的な笑みを浮かべていた後藤は、巳影と紫雨、それぞれの顔を見やる。
巳影は鼻息を荒くし、口をまっすぐ横に結んでいた。挑む者の目と、憤慨したような気配が混じり合っている。
紫雨は、緊張とためらい、動揺を表情から隠しきれておらず、一歩遅れて巳影の隣に立った。その膝は、かすかに震えている。
「じゃあ、早速始めるか」
後藤はいつの間にか手のひらに握っていた、半透明のキューブ状のものを、砂利道の上に落とす。それは一瞬で大きく膨らみ、後藤をすっぽりと包みこんだ。
「今度は発想の転換でどうにかなるものじゃねえ。二人して知恵と力を振り絞るんだな」
半透明の壁が四方を覆い、高さは昨日見たものと同じほどで、五メートルはあるだろう。側面も同じく、四方形をつくっている。
「さあ、この結界を破ってみせろ。それが第二のトラップだ」
「じゃあ、これをクリアすれば、俺たちが戦力外という言葉を撤回してもらえますか」
言う巳影は、手にバンテージを巻きながら、後藤を強く睨みつけていた。巳影の言葉に、後藤は底意地の悪そうな笑みで口角をつり上げた。
「なんだ、気にしてたのか? しかし本当のことじゃねえか」
「あなたを殴ります。結界の強化とかその前に、ひとまずあなたの横っ面を殴ります」
巳影の目は完全に殺気立っていた。バンテージで固定された拳同士をぶつけ合い、気合を入れる。
「やる気があるのは結構。だが……隣のやつ、やる気ねえんなら、何しに来たんだ?」
後藤はわざとらしい言葉選びと態度で、押し黙ったままの紫雨を鼻で笑った。
「お前、結界を強化しに来たんじゃないのか?」
「……」
紫雨は何も返さない。下唇を噛み締め、目を合わせるのがやっと、といった様子だった。
「言っておくが、今張った結界を攻略できねえようじゃ、この先どうやったって今以上の強化は不可能だろうぜ。教えたろ、結界術の構築法。土萩町にある結界は、それに沿って構築されてる」
後藤は内側から半透明の壁を軽く指でノックした。カツン、と固い音が鳴り響く。
「だが。これを「解読」できれば、構築法から自ずと強化の目処も立つだろう」
「……っ」
紫雨は何かをいいかけたが、再び唇をきつく閉じてしまった。うつむく視線の先は、地面と言うよりも、張り付いたように動かない自らの足であった。
「心が折れた、か」
後藤は腕を組み、腹の底から大きなため息をついた。
「俺に言いたいことが、たくさんあったんじゃあなかったんか?」
「……」
俯いてしまったままの紫雨に、後藤は小さく舌打ちをする。
「おいクソガキ! いいか、てめえは……」
怒鳴りかけた後藤は、弾かれたように宙を仰いだ。その視線、険しく尖らせた相貌は、困惑している紫雨のはるか後方……砂利道を散歩するかのように歩いてきた人影に向けられた。
「ここが『帰らず小道』か。なるほど、剣呑な気配がひしひしと詰まっている。心地いいものだ」
悠々と歩き、歌うように言葉を紡ぐのは、赤銅色の髪を持った少年だった。その声で初めて存在に気づいた巳影と紫雨は、慌てて背後に現れた少年に向き合い構えを取る。
「誰だてめえ。今この場所には、こいつらしか「招いて」ねえんだぞ」
後藤から、どすの利いた低い声が這い出る。むき出しの敵意と殺気は、側にいる巳影たちにも濃厚なプレッシャーを与えていた。
しかし声をかけられた少年は、ひしひしと張り詰める緊張感など風のように流し、口元をほころばせていた。
「勝手にお邪魔した無礼は詫びよう。俺は天宮一式というものだ。些事な用があって馳せ参じた」
「天宮……!?」
巳影は神木玲斗から聞いた情報を思い出す。
年の頃は巳影たちと対して変わらず、出で立ちはまるで陰陽師のような法衣に、ブーツ。赤銅色の髪をした……『茨の会』頭目を名乗る人物。
「ん……?」
少年、天宮が小首をかしげた。
その眼前には、火柱を腕に宿して飛びかかった巳影の姿があった。
「お前かああ!」
怒声とともに、巳影は大きく振りかぶった炎の拳を固め、天宮の顔面めがけて振り下ろした。だが、拳はわずかに天宮一式の前髪を揺らしただけで終わる。
巳影の拳は、なにもない空でひたり、と停止していた。
「……なに、っくぐ!」
「あはは、いきなり襲いかかるとは。そうか、お前が飛八巳影か」
拳どころか、肩や腰、足、膝、指先までが全く動かない。硬直してしまった巳影を眺めながら、天宮一式はにこりと笑った。
「俺たちを……『茨の会』を追っている復讐者というのは、お前か」
巳影の体は、天宮一式が鼻先まで顔を近づけてきたというのにも関わらず、身動ぎ一つできなくなっていた。言葉を放つことも、それどころか呼吸すら押さえつけられているようで、満足にできないでいる。
「……なるほど。どんなヤツか、高橋からの報告で気にはなっていたが……ふふ。ははは」
天宮の人差し指が、そっと巳影の額に触れた。
天地が逆転した。凄まじい衝撃を体中に受け、視界が大きく揺れた。自分が地面にひっくり返っていると気づいたのは、全身に強い痛みが走り始めた頃だった。
(な……何を、された!?)
肺が苦しい。息が詰まっている。
指一つ動かせないでいる巳影の側で、天宮はきらびやかとも言える所作で、そっと巳影の側にしゃがみ込んだ。
「俺たちに復讐、か」
すぐそこに。眼前に宿敵がいる。しかし。意識が尖っていくだけで、腹の底が煮えくり返るだけで、怒りを全身に伝える「力」が全く働かなかった。
「お前、今自分がどんな顔をしているかわかるか?」
こちらを覗き込む天宮の顔は、穏やかさを感じられる微笑みを浮かべていた。
「お前を支配する怒り、悲しみ、憤怒、憎悪。しかしその激情……仮に俺たち『茨の会』を討てたとして……その後はどうする?」
天宮は着いていた膝を浮かせ、立ち上がる。
「お前のその目から……そこからは「生」の気配が感じられない。憎悪だけで突き動かされたお前は、まるで「生きている死体」だ」
詩を口ずさむように言うと、天宮は動けずにいる紫雨と、立方体の結界を解除した後藤へと向き直った。
「要件はあなたにある。後藤力矢」
「……」
後藤は何も返さず、ただすくんでいるだけの紫雨の前に立った。
「あなたが『独立執行印』を守るために張った結界。それが厄介なんでな。高橋だけでは骨が折れるとのことなんだ。解除するのに、手を貸してくれないか」
「嫌だと言ったら?」
ぶっきらぼうに言う後藤に、天宮は涼しげな声で返す。
「ふふ。きっと、あなたの想像通りのことになるだろう」
後藤は舌打ちして、天宮の隣へと立った。
「師匠……っ」
その背中を追おうと、紫雨が腕を伸ばす。だが、踏み出した足は、砂利道を踏まず、荒れたアスファルトの地面でつまづき、紫雨は転倒した。
周囲を見なくても。『帰らず小道』から弾かれたのだと理解出来た。少し離れた位置には、倒れたままの巳影が身をよじり、なんとか立とうとしていた。
場所は、結界の基軸となる祠をおいた袋小路。しかし、袋小路からは、その祠が姿を消していた。




