39:傷
奇妙な事故だった。時速六十キロ以上のスピードを出した乗用車が、ブレーキも踏まず、赤信号の交差点に飛び込んだ。
衝突したのは、交差点に入った路面バスの真横だった。バスの車体は「くの字」に曲がり、ぶつかった乗用車もフロントが見えなくなるまで潰れていた。
駆けつけた警察や救急の人間たちは、壮絶に破損した死体の姿を、想像せずにはいられなかった。だが。
死者一名。その他、負傷者なし。
一人を除いた乗客すべてと、乗用車を運転していたドライバーまでもが「無傷」で発見された。
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「まさか、僕と入れ違いで君らが来るとはね……」
市民病院の談話室で、神木玲斗は小さなため息をついた。
「先生は、もう大丈夫なんですか」
向かいのソファに腰掛けた切子が言う。浮かない顔であった。心配しているのはもちろん先生……ではなく、今病室で眠っている巳影である。
「僕は十分休んだし、飛八くんもすぐに元気になるよ。一晩休めば大丈夫って、お医者さんも言ってたしさ」
「……しっかし、けったいなことになりましたわ」
切子の隣では、ししろが難しい顔をして腕を組み、唸っている。
「後藤師匠か……あの人らしいとはいえば、らしいけど」
ぐったりとした巳影を担ぎ込んだ切子たちは、偶然退院支度をしていた神木玲斗と鉢合わせた。事情を聞いた神木玲斗は今、切子とししろの二人を前にして、ぼそりと言った。
「……もし、だよ。もし君たちから見ても。紫雨が「これからを戦えそうにない」と思ったなら……言ってくれ」
切子は反射的に神木玲斗から目をそらしてしまった。ししろは口を横一文字に結んで、押し黙る。どちらの顔からも、明るい色はない。
「……紫雨は優れた結界術師だ。だけど、まだ「傷」が癒えてないようなら……」
神木玲斗は静かに目を閉じ、息をつく。
「高橋京極らは、そこにつけ込むだろね……確実に」
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砂利道に倒れ込んだ巳影の側まで走った。気を失ってはいるものの、規則的な息をしており、顔色も悪くはない。紫雨はほっと安堵の息をついた。
「また守られたな、紫雨」
後藤の声にビクリと肩を震わせ、振り向いた紫雨の顔は、怯えと疲労でくたびれたものとなっていた。
「そんな調子で、この先あるだろう戦いに……お前はついていけるのか?」
後藤は淡々とした温度のない声で言った。それに紫雨は震えている膝を、無理やり立たせて、力の入らない体にムチを打った。
「……あなたは、一体なんのために、こんなことを」
喉が震えていて、か細い声が出ただけだった。それに後藤は感情の見えない目で返す。
「俺はこの先、二つのトラップを結界内に用意している」
「……え?」
「結界を強化したいのなら、このトラップをお前がクリアしろ」
「な、にを……言ってるんですか」
風が吹き始め、防風林が葉をこすり合わせ、さざ波のような音を立てていた。夕日の色が強くなり、砂利道に伸びる影は深く濃くなっていく。
紫雨の震えた声には何も返さず、後藤は踵を返し、砂利道の奥へと歩いていった。
「し……師匠!」
その背中に手を伸ばした。だが、背中は闇の中に消えていく。紫雨の声もまた、閉じていく小道の中に埋もれていった。
その後、『帰らず小道』の内部からはじき出された紫雨と巳影は、目を覚まさない巳影を病院へと運び込んだ。その巳影は今、目の前のベッドの上で、かすかな寝息を立てている。
病室は三人部屋であったが、今他の患者はいなかった。ちょうど夕食の時間帯らしく、席を外しているようだった。
「……」
紫雨は自分の手に視線を落とし、ため息をついた。まだ、震えが止まっていなかった。力は入り切らず、指を握ることも出来ない。
「……何を怯えてるんだ」
紫雨は弾かれたように顔を上げた。視線の先には……ベッドから身を起こした巳影が、紫雨を射るような視線で見つめていた。
「飛八さん……」
「よく寝た。最近眠りが浅かったから、こんなに深く眠ったのは久しぶりだ」
背筋を伸ばし、体をほぐす巳影の目元には、くっきりと疲れを現す隈が残っていた。
「よし、明日またリベンジしよう」
「……はい?」
「お前の師匠にだよ」
真顔で言う巳影に、紫雨は言葉をなくしてしまう。
「お前、言われっぱなしで悔しくないのか」
「え……く、悔しい、ですか」
「俺たちは、真っ向から戦力外通告されたんだぞ」
巳影は手を握り、開いてを繰り返す。
「確かに俺はまだまだ未熟者だし、それに反論は出来ない。でも、今まで戦ってこれたという、自負があるんだ」
開いた手に拳を当て、巳影は鼻息を粗くした。
「それは、俺一人の力じゃない。切子さん、ししろさん、帆夏……それだけじゃない、今までお世話になった人たちもいたから、今こうして生きているんだ」
まあ、さっきまで倒れてたけど、と短く付け足した。
「それを軽々しく否定されたままじゃ、いやなんだ。お前には悪いけど、明日もあの人に挑むの、付き合ってほしい」
「……」
紫雨はうまく言葉を返せず、勢いと気迫に飲まれて、ただ頷くだけだった。
「じゃあ、明日もよろしくな。俺は……寝直す」
どしっとベッドに身を投げた巳影は、紫雨が声を掛ける前にいびきを立てて眠りに入った。半ばあきれながら、眠る巳影の横顔を見つめ、
「悔しい……か」
巳影が言った言葉を自分の唇でなぞってみる。
その言葉は、何故かずしりと……痛みを伴うほどに、心に強く輪郭を残した。
(悔しい……考えたこともなかった言葉だ……)
なのに。気がつけば紫雨は、下唇をつよく噛み締めていた。
(何に、悔しいんだ……僕は。師匠にバカにされたから? いや、違う……)
図星を突かれた、その一言が脳裏によみがえった。
どうやら俺が死んだこと、引きずってるみてえだな
ようやく、指先に力が入り始めた。強く握った手の甲に、熱いものが落ちていく。
「……引きずるに……決まってるでしょう……」
もう守れない。守りたかったものを、もう守れない。
「……悔しい、なぁ……」
吐き出した声は掠れ、歯止めが聞かずに感情が溢れ、漏れ出していく。
奥歯を食いしばり、それ以上口からこぼれないよう、手で塞ぐ。だが、その手の上を別の場所から溢れた感情が伝い、雫とこぼれた。




