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39:傷

 奇妙な事故だった。時速六十キロ以上のスピードを出した乗用車が、ブレーキも踏まず、赤信号の交差点に飛び込んだ。

 衝突したのは、交差点に入った路面バスの真横だった。バスの車体は「くの字」に曲がり、ぶつかった乗用車もフロントが見えなくなるまで潰れていた。

 駆けつけた警察や救急の人間たちは、壮絶に破損した死体の姿を、想像せずにはいられなかった。だが。

 死者一名。その他、負傷者なし。

 一人を除いた乗客すべてと、乗用車を運転していたドライバーまでもが「無傷」で発見された。


□□□


「まさか、僕と入れ違いで君らが来るとはね……」

 市民病院の談話室で、神木玲斗は小さなため息をついた。

「先生は、もう大丈夫なんですか」

 向かいのソファに腰掛けた切子が言う。浮かない顔であった。心配しているのはもちろん先生……ではなく、今病室で眠っている巳影である。

「僕は十分休んだし、飛八くんもすぐに元気になるよ。一晩休めば大丈夫って、お医者さんも言ってたしさ」

「……しっかし、けったいなことになりましたわ」

 切子の隣では、ししろが難しい顔をして腕を組み、唸っている。

「後藤師匠か……あの人らしいとはいえば、らしいけど」

 ぐったりとした巳影を担ぎ込んだ切子たちは、偶然退院支度をしていた神木玲斗と鉢合わせた。事情を聞いた神木玲斗は今、切子とししろの二人を前にして、ぼそりと言った。

「……もし、だよ。もし君たちから見ても。紫雨が「これからを戦えそうにない」と思ったなら……言ってくれ」

 切子は反射的に神木玲斗から目をそらしてしまった。ししろは口を横一文字に結んで、押し黙る。どちらの顔からも、明るい色はない。

「……紫雨は優れた結界術師だ。だけど、まだ「傷」が癒えてないようなら……」

 神木玲斗は静かに目を閉じ、息をつく。

「高橋京極らは、そこにつけ込むだろね……確実に」


□□□


 砂利道に倒れ込んだ巳影の側まで走った。気を失ってはいるものの、規則的な息をしており、顔色も悪くはない。紫雨はほっと安堵の息をついた。

()()()()()()()、紫雨」

 後藤の声にビクリと肩を震わせ、振り向いた紫雨の顔は、怯えと疲労でくたびれたものとなっていた。

「そんな調子で、この先あるだろう戦いに……お前はついていけるのか?」

 後藤は淡々とした温度のない声で言った。それに紫雨は震えている膝を、無理やり立たせて、力の入らない体にムチを打った。

「……あなたは、一体なんのために、こんなことを」

 喉が震えていて、か細い声が出ただけだった。それに後藤は感情の見えない目で返す。

「俺はこの先、二つのトラップを結界内に用意している」

「……え?」

「結界を強化したいのなら、このトラップをお前がクリアしろ」

「な、にを……言ってるんですか」

 風が吹き始め、防風林が葉をこすり合わせ、さざ波のような音を立てていた。夕日の色が強くなり、砂利道に伸びる影は深く濃くなっていく。

 紫雨の震えた声には何も返さず、後藤は踵を返し、砂利道の奥へと歩いていった。

「し……師匠!」

 その背中に手を伸ばした。だが、背中は闇の中に消えていく。紫雨の声もまた、閉じていく小道の中に埋もれていった。


 その後、『帰らず小道』の内部からはじき出された紫雨と巳影は、目を覚まさない巳影を病院へと運び込んだ。その巳影は今、目の前のベッドの上で、かすかな寝息を立てている。

 病室は三人部屋であったが、今他の患者はいなかった。ちょうど夕食の時間帯らしく、席を外しているようだった。

「……」

 紫雨は自分の手に視線を落とし、ため息をついた。まだ、震えが止まっていなかった。力は入り切らず、指を握ることも出来ない。

「……何を怯えてるんだ」

 紫雨は弾かれたように顔を上げた。視線の先には……ベッドから身を起こした巳影が、紫雨を射るような視線で見つめていた。

「飛八さん……」

「よく寝た。最近眠りが浅かったから、こんなに深く眠ったのは久しぶりだ」

 背筋を伸ばし、体をほぐす巳影の目元には、くっきりと疲れを現す隈が残っていた。

「よし、明日またリベンジしよう」

「……はい?」

「お前の師匠にだよ」

 真顔で言う巳影に、紫雨は言葉をなくしてしまう。

「お前、言われっぱなしで悔しくないのか」

「え……く、悔しい、ですか」

「俺たちは、真っ向から戦力外通告されたんだぞ」

 巳影は手を握り、開いてを繰り返す。

「確かに俺はまだまだ未熟者だし、それに反論は出来ない。でも、今まで戦ってこれたという、自負があるんだ」

 開いた手に拳を当て、巳影は鼻息を粗くした。

「それは、俺一人の力じゃない。切子さん、ししろさん、帆夏……それだけじゃない、今までお世話になった人たちもいたから、今こうして生きているんだ」

 まあ、さっきまで倒れてたけど、と短く付け足した。

「それを軽々しく否定されたままじゃ、いやなんだ。お前には悪いけど、明日もあの人に挑むの、付き合ってほしい」

「……」

 紫雨はうまく言葉を返せず、勢いと気迫に飲まれて、ただ頷くだけだった。

「じゃあ、明日もよろしくな。俺は……寝直す」

 どしっとベッドに身を投げた巳影は、紫雨が声を掛ける前にいびきを立てて眠りに入った。半ばあきれながら、眠る巳影の横顔を見つめ、

「悔しい……か」

 巳影が言った言葉を自分の唇でなぞってみる。

 その言葉は、何故かずしりと……痛みを伴うほどに、心に強く輪郭を残した。

(悔しい……考えたこともなかった言葉だ……)

 なのに。気がつけば紫雨は、下唇をつよく噛み締めていた。

(何に、悔しいんだ……僕は。師匠にバカにされたから? いや、違う……)

 図星を突かれた、その一言が脳裏によみがえった。


 どうやら俺が死んだこと、引きずってるみてえだな


 ようやく、指先に力が入り始めた。強く握った手の甲に、熱いものが落ちていく。

「……引きずるに……決まってるでしょう……」

 もう守れない。守りたかったものを、もう守れない。

「……悔しい、なぁ……」

 吐き出した声は掠れ、歯止めが聞かずに感情が溢れ、漏れ出していく。

 奥歯を食いしばり、それ以上口からこぼれないよう、手で塞ぐ。だが、その手の上を別の場所から溢れた感情が伝い、雫とこぼれた。


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