34:艶花論破
両方の手首、足首に巻き付いているものは、極細の糸に見えた。ピアノ線か、それよりももっと細い糸か。だが、この糸は普通の物質で出来ていない。
(霊気だ……見えるのがやっとの細さまで研ぎ澄ませた、霊気の糸……!)
それらは眼の前にいる黒い影から伸びていた。まるで、人形を操る糸のように、その手から伸びた糸は巳影を拘束していく。
「こうもあっさりとつかまるとは……拍子抜けですね」
鮮やかな花弁が開いたかのような、毒々しい笑顔だった。整った造形をした美貌は、愉悦に唇の端をつり上げる。
「本当にあなたが、あの「疫鬼」を討ち取ったんですか?」
「……なぜそれを知ってるんだ。それに、事足りる戦力ってのは、どういう意味なんだ」
「言葉の通りですよ。兄からあなた達に協力するよう言われましたが……このような雑魚といっしょに戦う気にはなれませんね」
「あ、兄……?」
巳影の呼吸が浅くなった。喉元にまで、極細の糸は絡みついてきた。
「ええ、ここの教師の神木玲斗です。僕はその弟、神木紫雨と申します」
黒い影、神木紫雨はレース生地で包まれた右手を、そっと巳影に向けてかざした。その指先は細く、ピアニストを連想させる「美」で作られていた。
「ここから先、高橋京極との戦いは、僕だけで十分です。弱い「あなた達」にこれ以上出張られても、迷惑なだけです」
喉仏を巻く霊気の糸は、すでに何重にも重なっていた。首だけではなく、拘束された手足にも重圧をかけていく。
「……迷惑、ときたか」
巳影は、自分の奥歯を噛みしめる音を聞いた。
「だが……俺にも引けない理由がある」
地響きのような唸り声が、頭の中で鳴る。
「雑魚だというのは、認める。俺はまだまだ未熟者だ。そこに異論はない」
腕全体が熱を持ち始めた。牙が、剥かれる。獣は咆哮を喉の奥に潜めながら、ゆっくりと顔を上げた。
「しかし。俺は一人で戦ってきたわけじゃない」
震える拳に力を込める。足を肩幅ほどに開き、腰を落とした。
「切子さんやししろさん、帆夏がいたから勝てたんだ。戦えたんだ」
太い音を立てて、霊気の糸ははち切れた。
「あの人達まで侮辱するんなら……殴るぞ」
熱は蒸気となり、広がった熱風は火の粉を渦巻かせ、巳影の両腕に火柱を生んだ。
吹き荒れる風を前に、紫雨は不敵に鼻を鳴らす。
「殴れるものなら、どうぞ?」
地面を蹴った足は、前に出ることで巻き付いていた糸を断絶した。
その瞬時に、四散したはずの霊気の糸が巻き付いた。
「!?」
踏み出しかけた足を捉えられ、巳影は両手に目をやる。空気を焼く火炎を帯びた手首に、またしても糸は絡みついていた。
「その程度の力押しでは、この『悪性理論』は突破できません」
右腕を強引に払った。それで手首に巻き付く糸は炎によって消滅するものの、消えると同時にまた新たな糸が絡みつく。
(ただの糸じゃないと思ってたが……これは)
喉を絞める糸を、指で強引に剥がすものの、今度はその指一本ずつに糸が巻き付き、自由を奪おうとする。
「再生能力……?」
「僕ら神木の家の霊力は少し変わっていまして。そのような調整も可能なんです」
力任せに、霊気の糸を引きちぎる。だがその繊維が粉になる前に、残滓の残る中を次の糸が飛び交い、腕を、拳を、腰を、両足を縛る。
「頑張ってくださいよ。そうやってもがいていれば、いつかは解けるかもしれません。いつまでかかるかはわかりませんが」
何度も絡みつく糸は、振りほどこうとすればするほど、何重にも巻き付き、体を重くしていく。
「……」
巳影は体を拘束する糸を見つめた後、それを操る神木紫雨へと視線を向けた。
「……そうか。そういうことか」
じん、と「右目」がうずいた。
「何が、そうなんです?」
巳影のこぼした独り言に、得意げな笑みを浮かべる紫雨は、悠然と余裕の態度で立っている。その紫雨の細い四肢を、凝視する。
「やれよ」
「……は?」
突然言った巳影の言葉に、紫雨はきょとんとして、間の抜けた声を漏らした。
「俺にとどめを刺せって、言ってるんだ」
巳影の声に、紫雨の笑みが凍りついた。
「相手の自由を奪い、拘束し、抵抗する意思も削ぐ。なら、あとはとどめを刺すだけだろう」
それで戦いは終わる。巳影が短く付け加えた言葉に、紫雨の秀麗な眉がわずかなシワを作った。
「なぜ、相手を捉えることだけしかしないんだ? 殴るなり、刺すなり、動けない相手にとどめを刺すことは簡単だろ」
「そ、それは……」
紫雨の微笑が、いびつなものになっていく。
「しないんじゃなくて……出来ないんじゃあ、ないのか?……その糸を制御することに、力のすべてを注いでいるから」
「……!」
紫雨の顔から完全に、微笑が消える。
「な、何を言っている。僕がその気になれば、動けないあなたなんか……」
「均一なんだ」
「右目」がひりついていく。
「この放たれた糸に使われた霊力の質量と、その根幹にあるお前の体に残った霊力の質量は、綺麗に比例している」
握った拳を解き、腕を縛る糸をむしり取った。即座に、腕は同じ糸で再度拘束される。
「霊力の出力がずっと均一だから、糸の瞬時再生が可能であり、しかしそれ以上の強度にはならない。ちょっと強引にやれば切れる程度に、あえて糸の強度を「脆く」設定している」
熱を持ち始めた「右目」は、痛みも生み始めていた。
「驚いた。こんな精密な霊力の調整ができるだなんて……相手を無力化するだけなら、これ以上の技はない。無力化するだけなら」
「……っ」
「この技の致命的な欠点。それは「決定打」を打てないこと。無限に相手を拘束することに力と知恵を回したおかげで、それ以上の余力がなくなり攻撃力と攻撃手段を失ってしまった」
「う……うるさい!」
「戦術としてはよかったけど、戦略にはなってなかったな」
「うるさいと言っている!」
焦りが、紫雨の頬に雫のような汗を落とした。
「そ、そんなに殴ってほしいなら、殴ってやる!」
紫雨は向けた右手はそのままに、左手を握り、大きく振りかぶった。巳影は動かないまま、顔をめがけて振り下ろされる拳を見据え、わずかに顎を引いた。
「……っ!?」
柔らかな、全く「作られていない」拳は巳影の額で受け止められた。紫雨の手は鈍い音を立てて弾かれてしまう。紫雨は声を押し殺し、痛みが走る左手を右手でおさえ、しゃがみこんだ。
「糸の制作と維持にすべての力を回しているからだ。本来肉体に備わっている筋力まで扱えなくなっているんだろう」
火柱とともに、糸は塵と消える。拘束は解かれ、巳影を縛る『悪性理論』は解除されていた。
「お前、人を殴ったことないだろう。人間って、思っている以上に硬いんだ」
「……」
涙目になっている紫雨は、下唇を噛み締めながらこちらを見上げる。
「その右目……何なんですか……」
意気消沈した紫雨は、すっかり戦意を失っていた。しゃがみこんだまま、立ち上がろうともしない。
「借り物さ、友達からのな」
わずかに雪の結晶の形のアザを残した右目は、瞬き一つで元の瞳に戻った。
「さて。これでも俺達が無力だと言うか?」
巳影の問いかけに、紫雨は力なく首を横に振った。
「……僕の、負けです。突っかかって、ごめんなさい……」
肩を落とし、うなだれた紫雨は、鼻の詰まった声でつぶやいた。




