31:舞台裏の攻防
夜の山は静寂を取り戻しつつあった。濁った空気の気配も遠のき、鼻をつく異臭、腐臭も森林の緑の香りに上書きされ、残り香も山の濃度の中に沈んでいく。
「おや。「疫鬼」を退けましたか」
山道……というよりは、獣道を歩く高橋京極はほくそ笑んでつぶやいた。
「彼女らは中々に、侮れない戦力と改めるべきですね」
「見ていた俺からすれば、負け惜しみにしか聞こえんがな」
高橋より少し先を行く少年は、乱暴に草木を踏み倒しながらぼやいた。
「失礼な。身を張っただけですよ。『龍の髭』の拘束の解除は……」
「分かった分かった」
不満げに言う高橋に、少年は振り返りもせず言葉を返す。
「まあ、計画通りなのです。切り替えて「次」に行こうではありませんか」
木の枝を踏んで、折り、草地を進む。その足がぴたりと止まった。それは前方を歩く少年、桐谷も同じだった。
かすかに虫のなく声が聞こえ、折り重なり、時折拭く夜風がそれを遠くへと流していく。
可視できる範囲は少ない。鬱蒼と広がる木々の間には、まだ深い夜の闇が張られ、奥底を見通すことはできない。高橋、桐谷は口を閉ざし、周囲に視線を飛ばす。
「聞きたいものだね。何が「計画通り」で、それがどんな「計画」であるのか」
高橋、桐谷が動こうとした瞬間、体に走る電流のようなしびれに、二人は顔をしかめる。足元には……背の低い草の間を這うようにして、糸のようなものが伸びていた。
その糸は衣服を貫通し、体内にまで潜り込んでいた。
「……人の気配には気を配っていたつもりでしたが……」
斜面の上に高橋は首を向けた。
「意外な伏兵の登場ですね」
「僕だって劣等生のままじゃないよ、キョウゴ。結界術の一つや二つ、編めるようになってるさ」
暗闇の獣道から、背の高い人影が降りてくる。スーツにネクタイ、革靴と山に入るには正反対の出で立ちに、高橋京極は苦笑した。
「教師になったという話は本当でしたか。玲斗」
「お前も町に戻っていたなら顔ぐらい出せよ、キョウゴ」
獣道に立つ神木玲斗は、穏やかな笑みを浮かべながら言った。
「……神木玲斗……『帰らず小道』の封印管理者か」
桐谷は手のひらを広げようとしたが、指をたたむこともできず、舌打ちを残す。
「悪いがしばらく束縛されてもらうよ。君らを……キョウゴを撃退した後を捉えるように、と柊くんに頼まれていてね」
「へえ、僕を。君が。捉える」
「まあ、前線に立つ戦力じゃないと、自分でも分かってるからね」
高橋は楽しそうに笑うと、手の中に閉じた扇子を握る。だが、同時にその手がビクリと震え、扇子は力なく地面へと落ちていった。
「ただの糸じゃない……霊力を束ねたものか」
桐谷は自分の手を束縛し、力を奪っているものを凝視する。桐谷の手のひらには無数の糸が張り付くように巻き付き、かすかな光を放っていた。
「丁寧な仕事だな」
「どうも」
「だが、力ずくで解除できなくはないだろう」
桐谷の手を縛る糸が、いびつな音を立てて凍てついて、白く濁っていく。やがて桐谷の手が拳を作り、無数の糸は粉々に砕け散った。
「……何」
驚きの声を上げたのは、桐谷だった。握った拳には、すでに糸が巻き付き、張り付き、固く結んでしまう。
「確かに脆いよ、僕の結界は。パワーによる正面突破も不可能じゃない。ただ……途方もない時間がかかるだろうけどね」
氷の欠片が砕けるたびに、糸は伸びて拳に絡まる。
「僕は『悪性理論』……と、この結界術を命名した。論破は受け付ける。いつまでもね」
桐谷は腕をひこうとするものの、まとわりついた糸は引きちぎられるたびに数を倍にして、桐谷の体へと巻き付いていく。
「小賢しい手を覚えたものですね、玲斗」
「頭脳プレーって言ってほしいな」
高橋の顔から笑みが消える。その視線は神木……ではなく、その後ろへと向けられていた。
「変わり種の結界術だな」
草木を無遠慮に踏みつけ、悪路である獣道を普通の歩幅で歩いてくる人影が笑みを浮かべていた。
「……!?」
「お前の結界術、中々論破に楽しめた」
人影は無造作に手から何かを放り投げた。それはボロボロにほつれた霊力で作られた糸の束であった。
「何者だ!」
神木はすぐさま地面に手を当て、手のひらから無数の糸を土に向けて放つ。
糸は地面を潜り、這い、人影に向かって伸びていく。しかし人影は慌てることなくそっと、自身の手を迫りくる糸に向けた。
腹の底を叩くような、分厚く重い音が地面ごと、糸を押しつぶした。糸は反り返りながらほつれていく。
「名を尋ねられたのなら、答えねばならんか」
月明かりが、山の闇に沈む獣道へ差し込んでくる。
赤銅色の髪をした少年がそこに立っていた。細身の体を包むのは、狩衣という装束に似ていた。身一巾で、襟が円く袖が広い。袖口には袖くくりの紐があり、体全体を緩やかに包んでいた。
「その出で立ちは……陰陽師……か?」
「さあどうかな。人を見た目で判断するのは危険だぞ」
袴の裾は、固い皮のロングブーツの中に収納されている。赤銅色の髪の少年は、優雅という言葉が似合う笑みを浮かべていた。
「俺の名は天宮一式。『茨の会』というささやかな集まりの責任者をやっている」
歌うように言ったその言葉に、神木の眉間に険しいシワが刻まれる。
「君が……飛八くんが探しているという団体の……」
不意に、神木の体に強い倦怠感が広がった。急激な体調の変化に、神木は思わず膝をつく。
「……!?」
「すまんが、この二人は回収していくぞ。いずれも、俺の仲間なんでな」
視界が暗く沈んでいく。呼吸も粗くなり、手足もしびれ始めていた。
「こ、これは……一体……」
神木の沈みゆく意識は、遠ざかっていく三人分の足音を聞き届けるだけに終わり、すべての感覚が地面より底深く落ちていった。




