29:土萩村の遺産
頭の中の獣は、大きく牙を剥いていた。最大級の警戒心が、巳影の中で暴れまわる。
ヘドロから現れた人影は、優に三メートルはあった。その中でも頭は巨大で、体とのサイズが釣り合っていない。
片方の目のまぶたは溶けかけている。ケロイド状になった肉の隙間からのぞく、真っ黒な眼球がぎょろりとこちらを見た。もう片方の目は、見当たらない。眼窩は暗く落ちくぼみ、黒く粘り気のある液体を、涙のように流していた。
耳元まで裂けた口がゆっくりと開かれた。そこからは、強い腐臭が溢れ出し、大気は茶色く濁っていく。
べたり、とその巨体が一歩足を踏み出す。土はぬかるみに代わり、紫に変色していた。背丈の低い雑草などは、変色した土に飲まれると、一瞬で枯れ落ち、崩れてしまう。
緩慢な動きで、巨体が腕を伸ばす。手の肌もケロイド状に溶けかけており、爪はほとんどが剥がれていた。
不意に、強い衝撃が腰に走り、背を地面に打ち付けた頃になって、ようやく突き飛ばされたのだと知る。
「乱暴してごめん。でも声が届いてないみたいだったから」
すぐさま側に、切子が駆けつける。そこで巳影は自分の思考が麻痺していたことに気づいた。同時に、体全体がひどく重く、だるく、発熱していることにも気がついた。まるでひどい風邪でも引いたかのような……。力の入らない体で、なんとか立ち上がった。
「あ、あれは……」
喉がかすれていた。血の味がする。
「……土萩村の病を司る鬼、「疫鬼」……。『独立執行印』が封じていた「危険な鬼」そのものだ」
隣に立つ切子も、顔色は悪かった。時折咳き込み、つらそうに相貌を尖らせている。
「そ、それより帆夏、は……」
巨体「疫鬼」を挟んでその奥。ししろに抱えられてぐったりとしている帆夏が目に入った。
「応急処置は済ませたよ。大丈夫、死にはしない。……こいつを何とかできれば、だけど」
言葉が終わると、切子は膝をついた。激しく咳き込み、額から大量の汗を流していた。思わず支えようと腕を出す巳影だったが、膝に痛みを感じて自分まで倒れ込んでしまった。呼吸がままならず、咳と同時に血の混じった痰が喉に絡みついた。
そうしている間に、「疫鬼」はゆっくりとした歩みで近づいてきていた。腕を伸ばし、大きな口を開く。
「高天原に神留まり坐す皇が親神漏岐神漏美の命以て八百万神等を神集へに集へ給ひ」
混濁する意識に、澄んだ風が吹き込んでくる。鈍くしびれていた指先が感覚を取り戻し、熱と痛みを持って膨れ上がっていた肩が軽くなり、足や腰に踏ん張る力が戻ってくる。
「我が皇御孫命は。豊葦原瑞穂国を。安国と平けく知食せと事依さし奉りき。此く依さし奉りし……今や切子、巳影! 合流せえ!」
ししろの声が、二人の中に渦巻いていたぬかるみを消滅させる。
切子は地面に落としてしまっていたナイフを拾うと同時に地面を蹴り、巳影は片腕だけに火柱を宿し地面を駆けた。「疫鬼」の前で左右に分かれた切子と巳影は、すれ違いざまにナイフを、炎の拳をその巨躯の足へと叩き込んだ。
「疫鬼」はうめき声を上げるものの、身じろぎ一つしなかった。舌打ちして切子と巳影はししろの元まで走り、構えを取る。
「ししろさん、ありがとうございます! そんな特技あったんですね!」
「こっちが本職や、祝詞の一つぐらい空で言えるわ」
とはいえ……と、ししろは苦い顔を「疫鬼」に向ける。
「決定打にはならへん。緩和したり弱らせたりはできるけど……」
「どうすれば」
「……あれも集合体みたいなもんや。なんの根拠もなく「病を巻き散らす鬼」とされた、土萩村の村人たちのな……」
「……」
「せやけど今は同情しとられへん。集合体なら「核」がある。それをぶち抜けば……!」
「疫鬼」がゆっくりと巨大な頭をもたげ、踵を返して歩き始める。離れたとはいえ、あと少しでこちらまでたどり着くだろう。
「しかし「核」って言っても、どこにあるんです……」
「疫鬼」をにらみながら言う巳影へ、ししろからの返答はない。ししろは押し黙り、奥歯を強く噛み締めていた。
「……まあ……私に遠慮なさんな」
呻く声が、ししろの腕の中で震えていた。
「帆夏!」
「私の……『竜宮真鏡』なら、それぐらい……」
切子の言葉通り、目に包帯を巻いている帆夏であったが、そこからはまだ赤黒い血がにじみ出ている。表情も引きつり、険しいものへと変わっていた。
「無理したらあかん! そんな状態で『竜宮真鏡』の力なんてつこうたら……!」
立ち上がろうとした帆夏を、ししろが抱きとめる。帆夏は無理やり笑みを作ると、手招きで巳影を呼んだ。同時に狼狽するししろを離し、苦笑を浮かべた。
「帆夏……」
「巳影っちも、聞いて」
ずし……と、地面が震える。「疫鬼」の歩行速度は早くない。だが、腐臭は周囲に漂い始め、喉がかすれてくるのが分かった。ゆっくりしている時間は、ない。
「あいつは『独立執行印』が封じてた「病」そのもの。土萩村は病人を追いやることで、村から疫病を排除した……」
帆夏の声も、かすれ始める。咳き込み、しかし言葉を止める気配はなかった。
「追いやられた病人たちは、やがて……「何か」になった。それが伝承で「鬼」と表現されているけど……要は人が生んだ化け物。『竜宮真鏡』はそんな化け物を封じる『独立執行印』のコアとして、存在する魔鏡」
帆夏の震える指先が、そっと巳影の頬に触れた。
「巳影っち、イメトレの要領だよ。精神を集中して」
帆夏の額が、巳影の額にふれる。巳影は呼吸をただし、目を閉じ、雑念を頭から追い払っていく。
「巳影っちに……『渡す』からね」
閉じていたはずの目に、光が差し込んだ。脳裏の映像なのか、まぶたの裏から見えるものなのかはわからない。
ただ、あの曇り空が広がる草原が映った。その視界に、雪の結晶のようなものが降り注いでくる。白に青に、黄色に光る結晶が、灰色の曇天を染め、雪解け水のように草原へと降り立ち、溶け込んでいく。
「……目、開けていいよ」
言葉より先に、帆夏が離れた気配を感じていた。額には、微熱のような温かさが残っていた。
ゆっくりと目を開く。眼の前には、ぐったりとし、しかし満足げな笑みを浮かべてまぶたを閉じる帆夏の姿があった。
「……もう、わかるね。巳影っちにも『見える』ようになってるはずだよ」
帆夏はまぶたを開こうとしない。目は閉じたままだった。それに、巳影は黙ってうなずき、立ち上がった。
「片方だけの目とはいえ……『竜宮真鏡』は伊達じゃないから。しっかり狙って、やっつけちゃえ」
「疫鬼」へと向き直った巳影は、雪の結晶を宿した右目を見開いた。




