173:うららかな日の斜陽は赫く咲く
あたりを覆う霧が一層と濃くなり、立ち込め始めてからしばらく。切子は視界の悪い中をいつもと変わらない足取りで歩く。
霧により仲間を見失ってから……いや、分断されてから数分。切子は一人になっても顔色を変えることなく進んでいく。
山道が石畳に変わり始め、細く急な階段が霧の中から現れる。階段に差し掛かった頃、わずかに霧が薄れて周囲の景色を目にすることができた。
高く切り立った岩山の中、大きな鉄の門が見えてきた。その門の前には、ずんぐりとした大きな影が居座っている。
「お久しぶりです、マスター」
階段を登り切った切子に、門の前にいたウシガエルがゆっくりと振り返る。
「柊切子か。久しいな、天喜の葬儀の時以来か」
切子は一礼してマスターの隣に立ち、その前にそびえる高い門を見上げた。
「ほかの……私の仲間たちは」
「それぞれで門まで来てもらっている。ここをくぐるには……門番の存在をクリアしなくちゃいけねえ。多数で挑んでも意味はない」
「……」
「すでに門をくぐった者はいるが……どいつもこいつも、なかなか苦労しているようだ」
「しゃべるあなたを見た後では、どんなものでもインパクト不足になりそうですが」
「違げえねえ」
カラカラと笑うマスターを後ろに、切子は鉄の門に左手を添える。
「右手にあるのは……宝剣か」
マスターが言葉をこぼす。確かに切子は今右手には、皮で作られた鞘袋が握られていた。
「これを抜いた責任は、必ず取ります」
切子は振り向かずに声だけをマスターに返した。そして返事も待つ素振りも見せず、門を強く押して中へと入って行った。
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血の臭いが漂う駅前付近は、驚くほどに静かだった。
月人が、胃袋を満たすため大きな口を開けて徘徊し、所々負傷した月人も目につき始めた。分厚い皮膚の上には、鋭い牙のようなもので噛みつかれた痕跡がいくつも植え付けられている。
もはや店員さえいなくなったカフェテラスの椅子に座り、文庫本に目を落とす天宮は、テーブルの上で鳴くホトトギスに「そうか」と気のない返事を返した。
ホトトギスは羽根を開き、くちばしで毛づくろいを行う。
「そうか、でいいんですか? 我々は動かなくても。連中、聖域に挑み始めたようですが」
「……ふむ」
「都合よく横槍を入れるのであれば、今から動いていもいいでしょうに。僕たちまで門番とやりあうのは馬鹿らしいですよ」
ホトトギスは赤い空に向けて鳴いた。天宮は読んでいた文庫本を閉じ、テーブルに置くと背筋を伸ばして体をほぐした。のんびりとした所作に、ホトトギスがため息のような声でさえずる。
「この間から一体何を読んでるんです?」
「ん? ああ……ドストエフスキーの『罪と罰』だ。あまり海外の作品は読んでいなかったんでな。気になってたので、買ってみたというわけだ」
「ご感想は?」
「……登場人物の名前を覚えるので一苦労だ。自分がここまで横文字に弱いとは思わなかった」
のんびりとした会話は、鉄を切り裂くような悲鳴でぶつ切りにされた。
月人の一体が、他の月人に食いつき、その肉を歯で引きちぎると喉へと押し込んでいた。悲鳴、にも聞こえなくはない声に、別の月人たちが緩慢な動きで集まり始める。立ち込める血の臭いが、さらに濃くなっていく。
「早くも共食いが始まりましたね」
春のうららを歌う音で、ホトトギスが一声上げた。
「一個体が供給なしに生存できる時間の課題は……クリアできませんでしたね」
他の複数の月人たちが、犠牲となった月人たちに群がり肉を咀嚼していく。食われた月人はすでに原型をなくしていた。飛び散った血液が血だまりを作り、肉をむさぼり損ねた月人がその赤黒いものをすすり上げていた。
「かまうことはない。『輝夜』を無事迎えることができれば解決するさ」
「……」
「ん? どうした」
じっとこちらを見たままのホトトギスに、天宮は小首をかしげる。
「念のためといいますか……一応尋ねます。月人の寿命の課題……解決できなかったのは何故です。問題点は設計の段階で明らかでしたし、改善する時間はあったと思うのですが」
肉をついばむ音が粘着性を持ち、耳の中に血の飛沫が入り込みそうだった。
天宮はその問いに苦笑する。
「痛いところをついてくるな、高橋。お前の目はごまかせないようだ」
「思うだけなら来間さんも桐谷くんも疑念を持ってますよ」
「それはすまない。ただ説明しなかっただけだ。月人に寿命を設定したのには、ちゃんと理由がある。それも『輝夜』が迷うことなくこの星に……この地に降りるためだ」
それから天宮が説明した言葉を聞いて、ホトトギスは目を大きく開いた。
「なんというか。僕が言うのもなんですが、あなた結構あくどいですね」
「言うなら合理主義者と呼んでくれ。新山たちの手前もあって、当面数だけは製造しなければならなかったんだ。新山と繋がっていた連中は、月人を生物兵器として利用するつもりだったらしいが……そんなの、日本の憲法に反するだろう?」
第九条、だっけ? とおどけて言う天宮は屈託のない笑顔で笑う。
「我々が今憲法どうこう言いますか……まあ、理由は納得できるものでしたので良しとしますが」
ホトトギスが羽を広げ、大きく空を打った。
「あなたの目的が達成される頃には、僕の目的も果たされているはずです。もうこの景色が結果とも言えますが……ここから、僕は僕で動くことも増えてきます。できる限りの協力はしますが……前もって言ってくださるとこちらも動きやすくなりますので」
「分かった。お互い頑張ろう。杞憂させてすまなかったな」
赤い空にホトトギスの影が消えていく。飛び立ったそれを見送った天宮は、すでに共食いで残骸となった月人の亡骸を眺め、目を細めた。
「頑張ろう、か……。我ながら、ずいぶんと殊勝な言葉もでるものだな」
ひとり呟き、天宮は肉が食いつぶされる音を耳にしながら、読書へと戻った。




