172:YAH YAH YAH
ひんやりとした土の感触を背に覚えながら、巳影は霧に遮られた空を見上げていた。
「あ、あれ?」
何故自分は今、仰向けに倒れているのだろうか。すぐ側には鉄の門がそびえており、巳影はぽかんとしている。
「どうやら門番には認められなかったか」
げろり、と深く渋い声とともに、大きなウシガエルがこちらをのぞき込んで言った。
「門番……?」
そう言われ、うっすらと記憶がよみがえり始めた。が、その途端。次の記憶につながるものは、こうして今ひっくり返って倒れている自分だった。
「中で何が起こったのか、追い返された者が後から知ることはできないぜ。不意打ちのようなものであるから、課題になっていると言える」
マスターはぼてぼてとした体を跳ねさせ、手近にあった石の上に座り込んだ。
「でも、本人にその気があるのなら、何度でも挑める。もちろん怪我ですんでるうちだけは、だがな」
マスターの言葉を聞きながら、巳影は身をよじって体を起こした。服に着いた泥を払って、改めて鉄の門を見上げる。
「……」
この門の奥で何があったのか。知る術はないらしい。だが、精神が妙にざわついていた。どうにも落ち着くことができず、体は動くことを求めてうずいていた。
(何かを……思い出したような……)
具体的な覚えはない。確証もなく根拠もない。だというのに、胸には大きな穴が開き、そこを空風が吹き抜けていくような、郷愁の念に似たものが巳影の心に染みついていた。
そっと鉄の門に触れてみる。固く冷たい感触が指先から伝わってきた。だがそれ以上の情報は得ることができない。
それに。それ以上に。
(……ベタニアの気配は消えたままだ)
瞳を閉じ、精神の中を探ってみる。だがどこにもあの巨体を見つけることができず、声どころか息遣いさえ聞き取れない。
試しに、手を強く握ってみる。しかしそこから先に燃える感触は蘇らなかった。
地獄門が開かない。発火能力が使えなくなっている。
いつからだ? 少なくとも、目が覚めるまで……空の色が赤くなる前まではいたはずだ。切子の部屋から飛び出した後、逃げ惑う最中に確認は取れなかったが、もうその時にはいなくなっていたのではないか……? と、巳影は顔を険しいものにする。
この頃は物静かであったが、元々おしゃべりな奴なのだ。異変に気付いたのなら、聞いてもいないのにでしゃばることぐらいはやりそうなものであるが……。
「しかしお前さん。その髪の色は……ファッションかね」
マスターの見上げる視線に、巳影は「髪……?」と自分の頭を触ってみる。特に変わったことはないようだが。
「鏡を見てみろ」
そういうと、マスターは頬袋を膨張させ、広い口の中から手鏡を取り出した。やたらとぬめるをそれを渋々受け取った巳影は、鏡に映った自分の髪を見て言葉をなくした。
髪の色が変色している。以前は前髪の一部だけだった。だが今は前髪のほとんどと、耳上、頭のてっぺんに至るまで、黒かった髪の毛は鈍くくすんだ赤色へと変わっていた。
「なん……で、こんな……」
言葉に詰まり、つい頭の中でベタニアに呼びかけてしまったが、当然ながら返事はない。
困惑で固まっている巳影を見て、マスターはふむと指で顎先をさすった。
「力の大元がなくなったようだな」
「……? おおもと?」
簡単に言うと、とマスターはげこりと鳴いた。
「人間だれしもが秘めている力だ。それは精神力だったり気力だったり、時には敵意や殺気も心から組みだして自分自身の力を引き出す……いわば源泉だ。それが今のお前さんには感じられない」
「え……」
それはつまり。ベタニアが完全にいなくなった……消滅した、ということなのか。
だとしたら、それは何故……いつ? どこに消えた?
胸に空いた穴が妙に寂しさを誇張していた。今胸の中をざわつかせている感情は喪失感……とでもいえばいいのか。
「……ふむ」
青ざめていく巳影を横から見ていたマスターは、鉄の門に視線を送る。
「一つ、なくした力を探せる方法はある」
マスターの声に顔を上げた巳影は、マスターが指さす方へと……鉄の門へと顔を向けた。
「心の中の探し物ならば、この中に手がかりがあるはずだ」
「……この中、に?」
「確証はない。門番にも認めてもらう必要がある。そこまでできたのなら、ヒントぐらいは見つかるだろう」
巳影はごくりと固唾を飲み、改めてその門を見上げる。
今の自分に必要なのは……力だ。正直、この門の中にあるものに関心はなかった。元々何かさえ分かっていないのに、勝手にこちらを計って勝手に試すような真似をする。ここに来たくて来たわけでもないのに。何も求めてはいないというのに。
マスターは「呼ばれた」と表現していたが、まったく心当たりがない。
(なんだか……腹が立ってきたぞ)
理不尽が続いていることに対し、今は落ち着けたからかそこに怒りを覚え始めた。
判断? 承諾? 門をくぐる資格?
そんなものを求めた覚えはない。なのにひっくり返り、背中を土で汚して、おかげにベタニアの消息さえ分からないときた。
そもそも、こんな状況でどこへ行ったというのだ。肝心な時に黙っていなくなった頭の中の住人にも、苛立ちの火の粉が降りかかっていく。
「その気になったか」
「……」
門の前に立つ巳影はふくれっ面のままである。周囲の霧が徐々に薄れ、鉄の門が全身を現した。自分の身長の何倍かもあるそれを見上げ、巳影は手のひらに拳をたたきつけた。
さび付いた鉄がきしむ音。門が徐々に奥へと開いていく。
この中というものが何を示すのかはわからない。興味もない。だが今は、黙って消えたベタニアの頭を小突きたいという苛立ちが、巳影の背中を押していた。中にいると判明しているわけではないが、見つけたら問いただす程度では気が済まない。
「武運を祈るぜ、『星撃ち』の少年よ」
マスターの声だけが響き、消えていく。門が完全に開いたと同時に、巳影は中へと飛び込んだ。




