171:聖域としゃべるウシガエル
逃げるだけで精いっぱいだった。町中は異様なほど静かで、血生臭いにおいと鉄のさび付いたにおいが交じり合う空気が、強い不快感を覚えさせる。
街角を曲がり、交差点を突っ切って、大通りは避けて山沿いに走った。町は今、物言わぬ月人が徘徊する事態となっていた。
駅前の商店街には多くの月人がうろついており、こちらの……人間の臭いには敏感だった。決して速くはないものの、月人たちはみな自分へ向かって走ってくる。
パニックになるな、と巳影は必死に自分に言い聞かせ、空気の濁りがマシな方へと逃げて行った。開けた田畑を横に見ながら、バス道を走っていく。
山間に近づくと、凄惨な臭いも薄らいでいるように感じた。そこからはただ清涼な空気だけを求め、足を動かしていった。
どれぐらい走ったのだろうか。町の中央を横断し山道へと出たはずである。正確な位置までは把握していない。ただ、ふと湿気のようなものが頬に染みこんでいることに気が付く。
我に返り見上げた周囲には、濃い霧が視界をふさいで立ち込めている。霧が出るほどの山奥に踏み込んだのだろうか……。
だが、霧の中を歩くにつれ、喉を焦がす臭いや空気は遠のいていった。湿気が生む水分が、荒れた呼吸器官系に入り込んでいく。精神的に追い詰められていた緊迫感も、不思議と緩んだ。
靴が小枝を踏み、しなりと折れた。視界はあまりよくない。周囲はうっすらと見えるだけで、二、三メートル先までは見通すことができなかった。
「肉眼だけじゃ見えないか……」
巳影は一呼吸おいて、右目に意識を集めた。眼球内部のレンズの収束度を高めるイメージを頭の中で描く。
赤い文様を浮かべた巳影の右目は、上へと続いていく細い階段を見つけることができた。石畳の階段の上には、建物のようなものが透けて見える。だが霧すべてを見通すことはできない。右目を閉じ、力を抜いて一息ついた。
ここからどうするか。迷い込んでしまったとはいえ、ここはもう『土萩村』だと言っていい。何があるか起こるかもわからない。だが、戻ったとしても町には月人がうようよと徘徊している。
せめて誰かと連絡を取ることができれば。スマートフォンを取り出してみるも、当然のごとく圏外の表示がスクリーンに浮かんでいる。
白くくすむ空を見上げた。山道に入ってからは、何故か心が落ち着いている。臭いもなく、枯れていた喉はうるおいを取り戻していた。
「……嫌な感じはしない……なるようになれ、だ」
階段の上にある建物を目指すことにした。他の山で見たような仏閣や寺院でもあるのだろうか。巳影は周囲を警戒しながら階段を上っていく。霧で隠された建物の正体が、徐々に明確に見えてくるようになった。
「え……なんだ、これ」
階段の先にあったのは、大きな鉄の門、らしきものだった。
門の左右には深い霧が漂っており、壁面がどこまで伸びているのかが分からない。
門の前までたどり着き、改めて大きなその姿を見上げた。ゆうに三メートル以上はあるだろう。だがその扉はかなり古いものなのか、施された装飾がはげ落ち、門自体がひどく色あせている。
「坊主、どっから来た。迷い込んじまったのか?」
不意に後ろから聞こえた男の声に、巳影は身構えつつ振り返る。しかし、後ろにあるものは霧の中に消えていく階段だけで、誰の姿もない。ただ「げこり」とげっぷのような鳴き声を出す大きなウシガエルが、のそのそと横切っていくだけだった。
「……気のせい、かな」
「おいおい、声かけた本人前にしてそりゃないぜ」
げこり。足元を通り過ぎ、鉄の門の前に座り込んだウシガエルは再びげっぷのような声で鳴いた。
「……」
巳影はまさか、という眼差しでウシガエルを凝視する。ウシガエルはその視線にこたえるように、巳影を見上げて口を開いた。
「たまにいるんだよ。この町の人間はやたらと感度が高い。だから道から逸れて迷い込む。まあ、それも歴史が歴史だからかね……世間じゃ神隠しってことで騒がれる」
ウシガエルが、そうつらつらと言葉を並べていた。
「お前さんも迷い込んだ……のかと思えば。違うようだな。逆に呼ばれた、か」
「ちょ、ちょ……ちょっと待って。待ってください。思考が追いつかない理解できない」
この町の異常は、ウシガエルがしゃべる幻覚まで見せるのか。だとすればずいぶんマニアックな攻め方をするものだ。ホラーめいた雰囲気からメルヘン風味ときた。いや、ウシガエルがしゃべる状況はホラーの続きでいいものか。
「面白おかしく混乱してるところ悪いが、どう考えたって状況は変わらねえぜ。俺はウシガエルで、そのうえ人間の言葉をしゃべってるんだからな。まあそういう場所だと思って受け入れな」
「この町一番のでたらめですよ! あ、あなたは何なんです!?」
唾を飛ばしながらわめく巳影に、ウシガエルは面倒くさそうなため息をついた。
「俺かい? 俺はこの聖域の案内人だ。名は……マスターとでも呼んでくれ」
確かに声だけを聴けば、渋いダンディーなバーのマスターに聞こえなくもない。だがそれ以上に引っかかるものを耳に残し、巳影はおうむ返しに言う。
「聖域……案内人?」
「そうだ。迷い込んだ人間がいたら、元の人里に戻す。目的をもって……『聖櫃』を求めてやってきた人間がいたら、案内する。だから案内人さ」
「……せいひつ?」
知らない言葉がところてん式に入っては出て行く。
だが目を点にしている巳影を置いて、マスターと名乗ったウシガエルは唸る声でつづけた。
「しかしひでぇ状況になったな。これも天宮どもの思う通りか……ほとんど町が異界になってやがる。ここからでも感じる禍々しい空気……まともな人間じゃ正気を保つのも難しいだろう」
「天宮って……知ってるんですか、あいつのこと」
「まあ、古なじみでな」
饒舌だった口がピタリと閉ざされた。このウシガエルが一体何者で、何故天宮一派を知っているのか……根掘り葉掘り問いただしたいところだったが、突然現れた見えない壁に巳影は押しとどまる。
「さて、お前さんがここに来たのは偶然じゃねえ。呼ばれた、と俺はジャッジする。お前さんには門をくぐる資格があるってことだ。だが、俺以外にもう一つ、承諾を得なければならない」
濃い霧が少しずつ薄れていく。異変を感じ取った巳影はすぐさま構え……。
「……ベタニア?」
力が、通らない。火がつかない。頭の中には、何も……誰もいない。
「ここの門番……『影の祝福』が次の相手だ」




