17:一つ屋根の下
「むー……」
「どうしたの。難しい顔して」
帰りのバスの中で、ししろは腕を組み、眉にシワを寄せて唸っていた。
窓の外は日が落ち、街灯がほとんどない道路はまるで天然のトンネルである。
「いや、あの二人……というか、二人にして大丈夫やろか……」
「巳影くんと穂夏ちゃん?」
「仲良ようしてくれとはいったが、変に距離感が……」
唸りっぱなしのししろに、切子はクスリと笑った。
「もしかして……ヤキモチ?」
「ヤキモチっていうたらそうかもしれんけど……」
はぁ、とししろは大きくため息をついた。
「手塩にかけて育てた娘が、初対面の男子と……てな気分や。娘さんを子に持つ世の中のおとんは大変やなぁ」
「……あ、そっち……」
日が落ちた山の暗さは、想像を超えるものだった。一寸先も見えやしない。まるで、あの影法師がまとっていた法衣のようだった。
「……むー」
玄関先の飛び石に座り込んでいた巳影は、星の灯さえ届かない木々の奥をずっと見据えている。
「見通せない、闇」
つぶやいて、その後に訪れた静寂は、思った以上に重かった。
(あの人は……高橋京極という人は、この闇そのものだ。そんなものに……)
もう一度勝てるか。緒戦は退けたとはいえ、あれが全力であるという保証はどこにもない。もしあの髑髏の鎧武者が二体以上で現れれば、結果は変わってくるだろう。
敵の手札は、死霊。だが、呼び出せる死霊の数も質も未知数。
浮遊霊程度なら焼き払えるかもしれないが、本格的な除霊となれば、専門家の手引と指導が必要だ。通用する武器があるというだけで、巳影は霊媒師ではない。
(そんな人が、奇襲を仕掛けてくるとして……俺だけで、ここを守りきれるか)
「飛八くーん、お風呂空いたよー」
緊張感のない、間延びした声が家の中から聞こえてきた。それに脱力感を覚え、うなだれる。
「入らない?」
「……。汗もかいたから、お借りしようかな……」
ドアを開けて呼びかける帆夏に、巳影は背を向けたままでいる。
「うんうん生真面目。見張りご苦労。……ちょっとなら覗いても良かったんよ?」
「しませんそんなこと!」
後ろから漂う、かすかに香る風を感じ取ってしまい、巳影は顔を真赤にして怒鳴った。
「まー冗談ともかく。お悩み事なら、私でなんとかできるかもね。ともかく、お風呂はいっちゃいなよ。話はそれから」
「……?」
肩越しに振り返った頃には、パタパタと廊下を歩く足音だけが残っていた。
その後、甘い香りの残る浴槽では気が休まらず、巳影はシャワーだけで済ませた。着替えは持ってきていない。今日だけは仕方ない、とシャツの袖に腕を通した。
「やあ、ウチの風呂はどうだったかな」
着替え終えたタイミングで、浴室のドア越しにニヤついた声が転がり込んだ。
「着替えたら、部屋に来て。あ、お茶も持ってきてよね、氷いれて」
「はいはい……」
バスタオルだけは借り物になってしまった。柔軟剤のいい香りがするが、気にしていてはのぼせてしまいそうだった。髪は乱暴に拭いて終わらせ、お茶を用意して帆夏の部屋へと向かう。
「しかし……これじゃ護衛というより召使だな」
なぜこんなことになってしまったのか。力なく息をつき、帆夏の部屋のドアをノックする。
「どーぞー」
相変わらず、気の抜けた声だった。巳影は憮然とした表情になり、ドアを開ける。
「お茶をお持ちしましたよー……」
「おー。さんきゅーさんきゅー」
Tシャツに着替えていた帆夏は、座布団の上であぐらをかいてリラックスしていた。しかし、目を縛るように巻く鎖は変わらずであった。
「まぁ座りな。ここからは真面目な話といこうじゃないか」
いいながらも、帆夏の口元はニタリとつり上がっている。
巳影はやはり憮然としたまま座り、お茶を受け取ってから帆夏は一口含み、
「悩み事は、自分自身の戦力不足かな?」
やはりニタリと口の端をあげて言った。それに巳影はしばし沈黙を挟んだ後、こくりと頷く。
「正直。君を護衛するどころか、自分自身の身も守れるかわからない」
「まあ、高橋京極といえば。稀代の天才って言われてた神童だからねえ」
自身が標的にされるかもしれない、という現実に、樹坂帆夏という少女からはやはり、危機感が見えなかった。
「第一『独立執行印』をいじって何をしようってんだか」
「せめて、相手の目的がわかれば、もっと具体的な防衛手段が打てるかもしれないけど……何しろ情報が少なすぎる」
「ふむ。故にやれることはなく、後手に回るという現状か」
帆夏は床にグラスを置くと、わざとらしい動きで宙を仰ぎ、
「ねえ飛八くん。飛八くんは、強いの?」
目が見えるなら、まっすぐにこちらを見ているであろうという角度で、帆夏は巳影を伺う。それに、視線があるわけでもないのに、気まずさを感じて巳影は顔をそらした。
「ある程度なら、どんな相手でも戦えると思っていた。でも、その程度でなんとかなる相手じゃないことは、わかっている」
「ふむ」
「……せめて、十分にトレーニングできる時間と場所があれば」
ほぞを噛む思いとはこのことだろうか。
(……師匠の言う事、ちゃんと聞いておけばよかった……)
無意識に握った拳が震える。だが、どう後悔しようが現実は変わらない。
「場所と時間、ね」
またしても笑みを浮かべる帆夏は「任せなさい」と自分の胸を軽く叩いた。
「イメージトレーニングってのは、どう?」
「イメトレ?」
「単なるシミュレーションじゃないよ。一人頭の中でぐるぐるやるんじゃないんだ。私が協力する」
自信満々の様子で言う帆夏に、巳影は眉を寄せた。
「私がオーダーした空間を、君のイメージと共有する。精神感応の応用だね」
「精神感応……?」
「簡単にいえば「共感する力」。どう? 私の作った空間でトレーニングしてみるっていうのは」
「で……できるのか、そんなこと……聞いたこともないんだけど……「作った空間」?」
帆夏はコツン、と重たそうな鎖を指先で弾いた。
「その通り。時間も場所も取らない……これは私個人のちょっとした特技さ」
頬をつり上げる笑みは、不敵なものに変わっていた。