168:赤い空
日に日に痩せていく病床の師は、それでも朗らかな笑みを崩すことはなかった。
ただ、もう時間はない。それはお見舞いに訪れる切子にもわかるものだった。
「いいんですか」
あけた窓から吹き込んでくる風は、澄み切ったもので、肌をひやりとさせる。
「ししろには……その……」
言いよどんでしまう。ここから先を、言葉にする勇気がなかった。
だが、切子のもどかしさをくみ取っていたかのように、師は……相澤天喜はゆっくりと首を横に振った。
「これでええ。ええんや。俺はこのままひっそりとこの世を去る。自分で選んだ道や」
声はかすれて、小さなものになっていた。もう、はっきりと声にする力もないのだろう。
「あの子を、頼むで」
微笑んだ顔からは生気も活力も感じられず、切子は下唇をかみしめ、無言でうなずいた。
□□□
視界はぼやけ、平衡感覚がまともに機能していない。立ち上がろうと手をついても、肩口からまた地面へと崩れ落ちてしまう。
動け、動け柊切子。今動けないでどうする。
視野の端に、『斬鬼』がししろをつかみ上げ、刀を振りかぶる映像が入り込んだ。
土を、折れた爪の先がえぐっていく。食いしばった奥歯はいびつな音を立てていた。転がり、落ちて、身を焼くヘドロの中をのたうちまわり、伸ばした腕で「それ」をつかむ。
もう自分が冷静ではないと分かっていた。分かったうえで対処する気もなく、ただただ内側から破裂しそうになるほど膨らんだ衝動に身を任せた。
「あの子を、頼むで」
光の奔流が、湖畔跡から突然噴き出した。まっすぐに天を刺したその光に、『斬鬼』は思わず振り返る。その目に入り込んできた光の点滅は、目の前を通り過ぎて地面へと降りた。
それが、ししろをつかむ『斬鬼』の腕を両断した、まばゆく光る剣の軌道だと分かった時には、二撃目の剣戟を腹部に受けて、その体を大きく後ろへと後退させた。
たたらを踏んだ『斬鬼』は、追って迫る光の波を、上段に構えた刀で受け止める。
見る者の目を焼く輝きは、次第に白熱する剣へと収束されていく。
「貴様……っ!」
『斬鬼』が苛立ちと興奮を交えた笑みで顔を引きつらせる。
「しゃべるな、その姿で」
真上から落とされた光の軌跡は、防御したはずの『斬鬼』の刀をさらに上から押しつぶそうとしていた。刀からは、鉄が砕ける音が鳴り始めていた。
「その姿でししろを傷つけさせることは、許さない」
あふれ出る光そのものを両手に握り、切子はさらに一歩前へと踏み込んだ。
「ししろぉ……?」
離れた位置で身を起こしたししろに目をやり、『斬鬼』はにたりと口の端をつり上げた。
「なるほど、この体はあの小娘の……ははは、そりゃ皮肉ってなもんだ。さっさと斬っておくべきだったか」
「させない。お前は今ここで、塵となる」
光の波はさらに光度を増した。鍔迫り合いとなった切子たちの姿は、ほとばしる煌めきの風に覆われてしまう。
まるでドームのようになった光を見て、ししろは切子の名を叫ぶ。だがそれは届かない。光に阻まれているからなのか、それとも……地割れを起こし地形を変貌させる、湖畔跡のクレーターが、暗い血の色をした土石流を膨らませて吐きだした音にかき消されたか。周りにそびえていた石山はあっけなく崩れはじめ、赤い濁流の中へと引きずられて砕けていく。
まるで山そのものが噴火したかのように、血の色の津波は山にあふれて山道を飲み込みながら、その勢いを止めることはなかった。
山そのものが地割れを起こし、傾いていく。山が吐き出す流血の土砂に、近隣の家屋や畑などはすべて飲まれ、破砕されていった。
□□□
身を引きずるような地響きに揺られ、巳影はぼんやりしかけていた意識が体に戻っていくのを感じていた。
「地震……? いや、俺はその前に……切子さんに……」
意識を失う前の記憶があいまいだった。だが、そんな寝ぼけた意識を直接揺さぶるような揺れが、真下から突き上げるように響き渡った。
巳影は慌てて飛び起き、見覚えのないワンルームマンションの一室から、ドアと思われる扉を開けて外へと出た。
「なんだ……これ」
廊下から見える空の景色に、巳影は言葉をなくす。
赤い。赤黒い血液が空にぶちまけられている。それに地響きは次第に強くなり、空そのものが大きく揺れているような錯覚にとらわれた。
巳影は身を低くしながら、振動で転がらないように耐えるのがやっとだった。
「くそ、なんだっていうんだ……! これじゃまるで……!」
世界の終わりのようではないか。
赤い空に登る太陽は、何故か普段目にしているものより大きく見えた。膨らんでいるというより……近づいているかのような。
何度目かの大きな揺れに、巳影は足元をとられそうになる。今は状況を正確に把握すべきだと半ばパニックになる頭を落ち着かせ、巳影は着の身着のままマンションを飛び出した。
外へ出るとその途端、血生臭い腐臭が鼻を突いた。生理的な嫌悪感を抱きながらも、周囲の状況を確認する。
近くのマンションや家からは、巳影と同じように考えたのか、住民らしき人影がちらほらと姿を見せ始めていた。誰もが空を見上げ……そして、静かだった。
パニックになり、誰かの悲鳴すら聞こえてきそうなこの景色を前に、また一人また一人と現れる町の住民たちは無言のままで空を見上げている。
誰の顔にも表情というものがない。生気も感じられず、血の気も見られない肌はみな生白い。その肌の色に、巳影は嫌なものを連想させる。
赤い空を見上げる住民たちは、体を強く痙攣させ始めた。次には前歯が大きく膨張し、顎先も膨れ上がり、巨大になった口を大きく開き、クジラの鳴き声のような声を空に響かせていく。腕は二倍以上の筋肉で太くなり、体躯は筋肉の膨張により一回りも二回りも大きくなっていった。
「月……人」
つぶやく自分の声すら、変貌していった住民たちの鳴き声にかき消されていく。そろって月人たちが上げる声は、遠吠えにも似ていた。
空を焼く太陽が、その輝きを増し始める。月人たちの声に同調するかのように、空をさらに赤い色へと濁らせていく。
一体の月人が、ゆっくりと口を閉ざして行った。連動するかのように、声をあげていた月人たちはみな口を閉じ始める。
そしてそれらが巳影の方へと振り返る動作は、一糸乱れないほどに揃っていた。




