167:厄災のように
隙の少ない斬撃をかわし、脇腹に一撃、右肩に一撃。返す刃を飛んでかわす間際に眉間へとつま先をたたきつける。
開いた間合いを、相手は埋めようとしない。額に受けた攻撃で大きくのけぞりはするものの、すぐに態勢を立て直しては不機嫌そうに顔をしかめていた。
「この肉体……動きはいいが、痛みがないというのは不便よな。危機感が薄れ相手の力量を見誤りそうだ」
殴っても、蹴っても。深いヘドロに叩き込んでいるような感覚に、比嘉葵はわずかに焦りを覚え始めていた。
視界の端、倒れている大場清十郎と伏したまま動く気配のない柊切子を確認する。まだ、かすかだか息がある。しかしすぐにでも治療しなければ助からない。しかし。しかし。
「女。やはり只者ではないな。並みの武闘家ではかなわない動きばかりだ」
立ちはだかる『斬鬼』は楽しそうに目を細めている。そしてその後ろには、微笑を浮かべ眺めている天宮一式。この二つの壁は、同時に出し抜くことが難しい。天宮は戦う意思を見せていないが、何をしてくるかわからない。その場にいるだけでプレッシャーを放っている。
ひそかに足元へと伸びた霊気の糸からは、黒く濁る泥に覆われた『斬鬼』の姿が感覚で共有されていた。後衛に当たるししろたちが、今必死の思いで攻略法を見つけ出そうとしている。しかし伝わってくるものは、焦りと空回る思考ばかりだ。
「まだまだ、お前とは斬りあっていたいものだが……ふん」
『斬鬼』は刀を握る手を見下ろし、つまらなそうに言う。
「俺の方は定期的に栄養を採らねばならん肉体でな。時間切れで終わっては興ざめもいいところだ。よってこの肉体が持つ技を借りて、閉幕としよう」
すると『斬鬼』は刃こぼれの激しい刀を、黒い鞘にそっと納刀した。その「構え」に、比嘉の全身は総毛立つ。わずかにひきつった頬の微細な動きを、『斬鬼』の目は見逃さなかった。
比嘉が地面を蹴り、低空の姿勢で『斬鬼』に接近する。『斬鬼』は刃を収めた鞘をまっすぐ地面へと突き立てた。そこへ飛び込み、比嘉が撃った抜き手は『斬鬼』の前髪を揺らした、だけに終わった。
黒く輝く漆のような煌めきが濁流となって、比嘉の足元から真上へとあふれ出た。それはまるで掘り当てた油田が吹き出す油であった。しかし重力を逆らう荒波はやがて波打つ水面を硬直化し、手足をからめとられた比嘉は波の中に体を閉じ込められる。
やがてすべての波は凍り付くように硬くなり、奔流するうねりをそのままに固まった。比嘉の体もまた、フィルムを一時停止させたようにピタリと動きを止めていた。
『斬鬼』は一息ついて、地面に突き刺さっていた鞘を引き抜き、目の前にできた波の塊を見上げる。
「大したもんだ。こりゃあ、結界術か?」
水を向けられた高橋は、高くそびえる黒い波のオブジェを興味深げに見上げて言った。
「きわめて限定的な範囲における結界術ですね。本来なら何日も準備をしなきゃできない高度な結界術ですが、効果範囲を絞ることで簡略化し発動しています」
が、と言葉を区切り、黒い波の表面を見据えてつぶやく。
「完璧ではないようですね。この結界、一時間ほどで砕かれるでしょう。中に閉じ込めているご婦人の力でね」
固い音がかすかに鳴り、うねる波の一部に亀裂が走りかけていた。硬直して動けないはずの比嘉葵の拳は、わずかであったが震えている。『斬鬼』は楽しみを見つけた子供のように笑い、収めていた刀を抜き放って踵を返した。
「なら今のうちに、残りものを片付けておくか」
『斬鬼』が振り返った先には、恐怖で身を固くしながらも目をそらそうとしない神木たちがいた。一歩前に神木が出て、手のひらに霊気の糸をまとわせる。
「さてどうする。お前たちは取っ組み合う気風ではないだろう」
『斬鬼』の言葉にこたえるかのように、さらにもう一歩神木が足を踏み込んだ。神木の顔は恐怖と焦燥、そして絶望感でこわばり、ゆがんでいる。だが、その双眸には無造作に歩き近づく『斬鬼』の姿を捉えたまま、動かそうとはしなかった。
「いい目だ、悪くない。賞賛の証として、首を一太刀で跳ねて終わらせてやろう」
ぎらつく刃がゆっくりと傾き、『斬鬼』は刀を水平に倒して構えた。それが空を斬って振りぬかれる……寸前。『斬鬼』が刀から覚えた違和感に、笑みを浮かべながら舌打ちする。
神木の喉元まで迫った刃は、わずかに軌道を変えて何を斬ることもなく斜め上へとそらされた。刀の鍔元には、いつの間に伸びてからめとられたのか……霊気でできた糸が括りついている。
糸は強引に腕を引き戻せばあっさりとちぎれて消えた。が、引いた腕にもまた糸が絡みつく。今度は別の角度から……真正面にいる神木が放った糸は、一瞬だが『斬鬼』の動きを止めていた。同時に『斬鬼』の思考にも不意が生まれ、立ち止まってしまう。
途端、『斬鬼』の顔面を強く大きな衝撃が襲った。同時に鼓膜が破れそうなほどの爆音が、わずかに『斬鬼』の顔を不愉快そうにしかめさせる。
後ろへと傾きかけた『斬鬼』の肉体は、ばねのように反動で元に戻ると、霊気の糸を引きちぎりながら、神木の顔を手で鷲掴みにして力任せに地面へとたたきつけた。同時に刀を振って、耳元まで鳴り響く鐘の音を断ち切る。至近距離からハンドベルを振ろうとしていた蝶子と、『斬鬼』の目が視線を結ぶ。
蝶子の額にたたきつけられた刀の柄は、その一撃だけで蝶子の意識をつぶしてしまった。膝から崩れ落ちる蝶子の傍ら、紫雨は糸も出さず悲鳴に似た怒声を上げて『斬鬼』へと肩かから突っ込んだ。しかし、破れかぶれのタックルに『斬鬼』は微動だにしない。それでもあがこうとする紫雨の頬を、左の拳が打ち付けた。真横から殴られた紫雨は頭から地面に倒れ、立ち上がることはなかった。
一連の動きを見ていた帆夏は動けないでいた。怯え、震え、涙さえこぼれそうな右目で、可能な限りの『斬鬼』の動きを網膜に焼き付けていた。赤い文様の目はゆっくりと伸びてくる『斬鬼』の手を写し、そこで帆夏の視界は途絶えた。
帆夏が倒れる寸前までの映像を頭に叩き込んだししろは、『斬鬼』の右手へと飛びつき、しがみついた。同時に、胸元に抱えた大量の札を起爆させる。轟音に『斬鬼』は思わずのけぞるものの、白い光は流し着の袖を焼く程度で終わった。
火傷の後がかろうじて残るその腕で、『斬鬼』はししろ胸倉をつかみ上げた。
「雑魚にしてはよく粘ったもんだ。その褒美をくれてやろう」
『斬鬼』は薄く笑いながら、右手に持つ刀を大きく振り上げた。




