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165/165

165:決戦迫る、水際の舞台袖

 『黛書房』である程度の休息をとったのち、しばらくの間ここを拠点として動くことが全員の話し合いで決定した。

 危険な町中から離れ、敵襲撃の際も開けた場所のため目視で確認できる。打って出るには不便な場所であるが、今は安全を確保しそれぞれのメンタルをケアすることが先決だった。

 切子は早朝、比嘉葵を連れて朝一番のバスに乗り、自宅へと向かっていた。比嘉の「巳影の様子を見ておきたい」という言葉にうなずき、昼までには戻るつもりで『黛書房』を出発した。

 やはり、この人も弟子が心配なのだろうか。バスに揺られながら、遠くの景色を眺める比嘉の横顔を見て、切子は少し心を曇らせた。

 今飛八巳影は乱暴な手段で自宅に軟禁している。比嘉の手ほどきがあったにせよ、まだ後ろめたい気持ちが残っていた。いくら手段を選んでいる余裕がないとはいえ、結界で閉じ込めているのである。

「問題はない」

 そんな考えでうつむいてしまった切子が、隣から投げられたぶっきらぼうな言葉に顔を上げる。

「気に病む必要はない。ほとんど私の指示だ。君は正しい選択をとっている」

 窓の外に目をやりながら、比嘉葵が言う。

「こんな景色の中で、正解などないんだ」

 薄暗い朝の雲が、次第に赤黒い色に染められていく。陽の光……にしては、異様に彩度が濃く、空一面が鮮血のような赤となっていた。バスの中にいるというのに、鼻にはうっすらと漂う腐臭が届いていた。

 バスがやがて町中にたどり着き、切子の暮らすマンションへと二人は会話なく歩いてきた。ドアを開け、薄暗い部屋の中に比嘉を招き入れた。

 比嘉は部屋の中央で丸くなり眠っている巳影を目にし、安堵のような息をついた。続いて部屋の中に張らた結界を確認しつつ、そっと巳影の側にしゃがみ込んだ。

 巳影は静かな寝息を立てて眠っている。しかしそこで切子はふと違和感を覚えた。

「あれ……前髪が……」

 戻ってきた巳影の前髪は、まるでメッシュでも入れたような、赤い色に染まっていた。その赤が見ないうちにくすぶり、錆びたような色合いになっている。それも、前髪の一房だけではなく、耳の上の髪の毛にまで変色範囲が広がっていた。

「まずいな……思った以上に侵食が進んでいる」

 細い指で巳影の前髪を撫でた比嘉は、立ち上がりつぶやいた。

「侵食……?」

「こいつが獣の力を使えば使うほど……器である肉体が人間のものではなくなり始めている」

 息をのんだ。まったく予想してなかった成り行きではないものの、専門知識のある人間がいう言葉には、何も返せない。

「このままでは鬼以上の脅威となってしまうだろう。完全に獣の力に飲み込まれれば、恐らく人間だった頃の魂など残ってはいまい」

 無差別に力を振るう、文字通りの獣となる。その力の一端を見ていた切子は、背筋に走った悪寒をこらえることができず、固唾をのんで身を震わせた。

「で、では……どうすれば」

 かろうじて出た言葉は、掠れた声になっていた。だがその声に、比嘉は視線を落とすだけで明確な返事を返すことはなかった。

 比嘉は立ち上がり、重たい息をこぼしてうなだれた顔を上げる。

「悪あがきでしかないが……この結界の中に閉じ込めておくしかない。今出せば、変異していく町の空気にあてられて、獣への侵食がさらに速く進んでしまうだろう。……結局は、時間の問題かもしれんがな」

 そうつぶやくように言うと、和服の懐から一枚のお札を取り出した。

「私が今できることは、この結界の強度補助程度だ。即席の術だが、何もしないよりかはましだ」

 お札に指先を走らせ、床に張り付ける。お札からは赤い文字が浮かび上がり、ぼんやりと輝く結界の明かりが少し強みをましたように見えた。

「私用に付き合わせてすまない。……戻ろうか。すぐにでも、第二の独立執行印を強化し、これ以上の悪化を防がねばな」

 切子はうなずくことしかできなかった。

 無力。怒涛のように進んでいく事態に自分は何ができるというのだろうか。切子は何も言えないままマンションを後にし、比嘉とともに再びバスへと乗り込んだ。



□□□



 バスが『黛書房』に切子と比嘉を運んだ時には、時刻が昼前に差し掛かっていた。

 空は、赤い。陽の光が強すぎるように見える。煌々と空に登る太陽は、まだ西に傾いているにも関わらず、夕日のように燃えていた。そのため空は夕暮れに似た赤に変わり、見る者の心をざわつかせるものとなっていた。

 書店の庭には、一台の古びたバンが停まっている。おそらく、修理に出した神木の代車だろう。切子たちは二階の工房に上がると、そこでは神木と紫雨が中心となり、独立執行印の強化処置について打ち合わせが行われていた。

「おかえりなさい。……大丈夫?」

 出迎えてくれた蝶子が、うつむいたままの切子に声をかける。切子はすぐに表情を柔らかいものに切り替え、「うん、大丈夫だよ」とうなずいた。

「帰ってきて早々ですまないが、これから湖畔跡へ向かおうというところだ。時間が惜しい、行けるかな……柊さん」

 神木の言葉に切子は無言でうなずいた。

「もちろん敵の妨害はあるだろう。その間、君と大場くん……そして比嘉さん、あなたにも前衛をお願いしたいのですが」

「むしろ買って出よう。徒手空拳ではあるが、まだまだ若い連中には負けんつもりだ」

 比嘉は握りこぶしを作って言う。その手は女性の手とは思えない、実戦で作り込まれた拳だった。

「心強いぜ。俺は次であいつらを全部潰すつもりでいる。もう腐れ縁にはうんざりだぜ」

 煙草に火をつけず、指でもてあそんでいた清十郎が不敵に笑って見せた。この重い空気の中そう言えるのは、胆力がある証拠だろう。

「では全員、できる限りの準備と武装を整え、出発だ。僕と紫雨、そして相澤さんが独立執行印の強化を。蝶子と樹坂さんは安全な距離で前衛組のサポートを頼むよ」

「了解です。でも……さすがに緊張しちゃうな」

 こわばった笑みを浮かべる帆夏だったが、その頭を清十郎がわしゃわしゃと乱暴に撫でた。

「絶対後ろには通さねえよ。贅沢いえばあいつもいりゃ少しは……」

 言いかけた言葉を、清十郎は途切れさせた。それに帆夏も一度視線を落とすものの、顔を上げて「任せて、みんなの便利な目になるから」と強がって見せた。

 その肩に、優しく蝶子が手を置いてうなずいた。

「今は自分にできることを、最大限にやりましょう。私も隣にいるからね」

 蝶子の言葉が、場の空気を少し軽くする。重圧の合間を縫うように、一行はそれぞれが立ち上がり、神木の運転するバンへと乗り込んだ。


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