163:美食家の暴食
体はわかりやすい反応のため、全身がしびれたかのように動かず、鈍い痛みすら感じるプレッシャーが、その男……『斬鬼』という存在から放たれていた。
鞘から刀を抜き、ちらりとその目がこちらへ……清十郎たちへと向けらえた。その目にとらえられてから動けたのは、奇跡といっていいかもしれない。
緩やかに、流れるように『斬鬼』の持つ刃は真上から撃ち落された。清十郎は太刀でそれを受け止めるものの、鍔迫り合いになることを避けるため、とっさに後ろへと下がる。
「っち、挨拶もなしかよ」
腕にうまく力が入らない。先ほどまでの天宮との乱戦に加え、現れた鬼が持つ気配だけで、ずいぶんと体力も気力も失っていた。
斬りかかってきた『斬鬼』は清十郎の後を追うことはなく、興味深げに清十郎とその手に握られる太刀を眺めていた。
「興味深いな、現代の剣士。貴様、大場家所縁の者か?」
「……想像に任せるぜ」
言葉を適当に返し、清十郎は切り込めるチャンスをうかがっていた。だが、疲労は集中力を奪い思考がうまく走らない。故に、無防備に立つ『斬鬼』から隙を見出すことができずにいた。
後ろに控えている紫雨たちもまた、『斬鬼』の雰囲気にのまれて体を硬直させていた。もうこうなれば、まともな戦闘など望めもしない。
この場は逃げるしかない。だが、逃がしてくれる相手ではない。
どうするか……半ば詰みかけた状況に奥歯をかみしめる清十郎であったが、ふと耳に届く音に気付き、顔を上げる。
それは『斬鬼』や天宮、高橋にも聞こえたようで、急速に近づいてくる爆音が届く湖畔入口付近へ振り向き、悪路を駆け上がった自動車がエンジンをうならせ飛び込んできた。
「乗るんだ、早く!」
運転席から顔を出して叫んだのは神木だった。後部座席からは二つの人影が飛び出し、あっけに取られて動けずにいた紫雨やししろ、帆夏を担ぐように抱いて座席の奥へと手早く押し込んだ。
「な、なんや切子!?」
「説明は逃げきれたらする!」
乱暴に乗せられたししろに短く返し、切子は一瞬だけ視線を『斬鬼』へと向けた。
「……っ!」
奥歯を強くかみしめ、すぐさま車の中へと入り込む。同じように担いで連れられた紫雨と帆夏は、自分たちとそう変わらない体格の和服姿の少女を見て目を白黒させていた。
「全員乗った!?」
助手席に座る蝶子が狭い車内で押し込められた面々の無事を確認する。同時に神木は乱暴にアクセルを踏み込んで、道ですらない山林を乱暴な運転で下り……半ば転がる勢いで車体を飛ばしていった。
「おやおや。ずいぶんなパワープレイですね」
エンジン音は遠ざかっていく。場に残された高橋は苦笑を浮かべて言った。
「よかったんですか、逃がして」
言われた天宮はカラカラと笑い、
「あそこまで強引に来られては、唖然とするのもまた風情よ」
よくわからない言葉が返ってきた。それに高橋はまたしても苦笑いを浮かべる。
「風情で車の保険金が下りるとは思いませんがね」
高橋は次に『斬鬼』へと目をやった。『斬鬼』は走り去った車には興味を示す様子もなく、のんきにあくびを噛み殺していた。
「しかし高橋、よくやってくれた。見事独立執行印の解除を果たしたな」
「いえ、厳密にはまだです。そこの彼も、別の魂を器にして受肉させたもので、完全に『斬鬼』という鬼が復活したわけではありません」
湖畔は元の透明度の高い水面とは程遠い、黒く濁った沼地のようなものに変わっていた。水は枯れ、腐臭を放つヘドロが底にこびりつき、ドーム状の墓標の姿をあらわにしている。
「本格的に解除するためにはあの宝剣を何とかしないといけませんね。とはいえ一番厄介な水呪の番人がいなくなったんです、いくらでも攻略法は見えてくるでしょう」
さて、と言葉を区切り、高橋は改めて『斬鬼』へと向き直った。『斬鬼』はしげしげと天宮を珍しそうに見ていた。
「はて、お知り合いでしたか?」
『斬鬼』と天宮に問う。先に答えたのは『斬鬼』だった。
「天宮一式……新山家の裏にいたってのは知ってたが、俺はあんま興味なかったな」
顎先を指で触りながら『斬鬼』が言う。天宮もうなずいて言葉をつづけた。
「俺と彼に直接の面識はない。俺はその頃裏方に徹していたからな」
天宮は朗らかに微笑むと、『斬鬼』へ右手を差し出す。
「寝起きのところを申し訳ないが、これから俺たちに力を貸してほしい。独立執行印の解除も行うし、何より『土萩村』には鬼が必要なんだ」
差し出された右手を前にして、『斬鬼』は目つきを鋭い物に変える。
「目的は」
短く言った『斬鬼』に、天宮はまっすぐその目を見て答えた。
「惚れた相手との逢瀬だ」
『斬鬼』の目が丸くなった。きょとんとしていたが、喉の奥でくつくつと笑い始め、ついには腹の底から笑い声をあげた。
「下らんな。あまりにも下らん。……下らんから、付き合ってやってもいいぞ」
『斬鬼』の笑みが別のものになっていく。
「人間たるもの、正直なのが一番だ。気に入った。気に入ったから……一つ条件を加えたい」
『斬鬼』は天宮の右手を取らないまま、口角をさらに上へとつり上げていく。
「今じゃなくていい。すべてが終わるころに……俺と立ち会え」
今度は天宮が目を丸くして立ち尽くした。そこへ低い声で笑う『斬鬼』が続けて言った。
「お前ほど純真かつ歪な魂は見たことがない。そんな奴を斬ればどんな味がするか……考えただけでも涎が止らん」
尖る相貌に映る天宮は苦笑しながらも「できるだけ努力しよう」と言って、右手を下げた。
「しかし剣客というのは変わった生き物だ。来間もそうだが……そんなに斬りたいものなのか?」
『斬鬼』は天宮の問いを鼻で笑いとばした。収めた刀の柄を指先でつつき、「当然だ」と笑った。
「刃を交えることこそ喜びであり、斬る心地は理解に到達する。ほしいものこそ、自分の剣で刻みたいものだ」




