162:最悪の転生
第二の独立執行印、それを解くことは容易ではないと高橋京極も挑む前から分かっていた。そのためいくつもの前準備をし、起こりうるトラブルなど幾重にも策を用意した。
まずは番人となっている水呪の湖畔。死霊に耳を傾ける高橋の術とは相性がいい……とはならなかった。
水の中に居る亡霊たちは近づくものを無条件で攻撃しようとする。それをなだめることはどんなレベルの術師でも不可能に近い。構造がほぼマシンのようになっているからだ。恨めしさや口惜しさ、そういった遺恨の念すら感じ取れない。ただ強力なだけの暴力装置……それがこの第二の独立執行印を解くことの難しさであった。とっかかりというものがない、それは断崖絶壁を素手だけで登ろうとしているようなものだ。
(付け入るものがあるとすれば……それは『斬鬼』自身の魂)
高橋は精神を集中させて湖畔へと向き合う。錫杖を前に差し出し、無軌道に迫りくる水呪の敵意をかいくぐり、意識を水底にある墓標へと潜らせた。
まったく生物が存在しない湖畔の中は、とてもクリアな空間だった。整備された水族館の水槽のように、ただ透明な水で満たされている。ドーム状に膨れている墓標は、朽ちかけて零れ落ちる寸前の剣に打ち付けられ、鎮座していた。それを意識の中で見据え、ふと違和感を覚えて高橋は閉じていた目を開けた。
視界の端……少し離れた位置では天宮一式が、一人で複数の相手と交戦していた。今のところ大ダメージを負うこともなく、動きにも余裕が見て取れた。唯一のオフェンスである大場清十郎は太刀を当てることも難しくなり、高橋の隙を伺う相澤ししろや樹坂帆夏、神木紫雨は天宮に翻弄されて動けずにいる。
高橋は深い息をついて、再び意識を水中へと潜らせた。水呪の敵意を潜り抜け、改めて墓標に向けて精神を研ぎ澄ませた。
元人間の魂だと思われる反応が、二つ。高橋はそれに眉を寄せる。眠ってるのは『斬鬼』となった男の魂だけではないのか……確認するために、意識をさらに潜水させた。感覚だけの話をすれば、高橋は墓標の前に立っているようなものだった。そこまで近づいたことは初めてであり、ようやく気付くものもあった。
『斬鬼』を押し込め、封印するための重しが……一人の人間の魂と同等の質量が、蓋のようになっている。
考えられることは一つ。人柱だ。一人の人間の魂を使い、災いを封じて押さえつける。もちろんそんなことをすれば、どんな人間だって死亡してしまう。そこにはどうしても恐怖や痛み、恨みなどの残滓が生まれるはずなのだが……。
高橋は墓標を上から覗き見る。蓋となっている魂には、ほとんど濁りと呼べるものがなかった。透き通るほどクリアな状態であり、雑念の類いがない分重量のある蓋として機能している。
(……これは)
使える。魂の正体を推察できた高橋の脳裏に、とある企てが瞬時に組み立てられた。
『斬鬼』そのものを完全に復活させることはできない。だが……面白いことになる。高橋は意識を水中から岸辺に立つ自分の体へと引き上げた。
「どうだ高橋。進捗のほどは」
敵総勢四名を前にして、振り向く余裕はさすがにないのか、背中越しに天宮が言う。
「完全な独立執行印の解除は難しいですね。しかし、面白いことが分かりました。うまくいけば『斬鬼』に姿を与える……肉体の受肉だけは可能でしょう」
高橋はいつも使用する死霊術を、水底へと潜らせた。『斬鬼』自身を復活させるなら、蓋となっている魂を取り除かねばならない。だが今の段階ではそれは難しい。なら……。
蓋となっている魂に死肉を付与し、『斬鬼』が顕現するための器にしてしまえば。
水中に混じる黒い霧は、まるで墨汁でもぶちまけたかのように水面をどす黒い色にしていく。水呪が騒ぎ始めた。水面には激しい波が起きてはぶつかり合い、沸騰したかのように水泡が沸き起こっては破裂していく。弾けた水泡の中からは、強烈な腐臭が飛び出してその場にいる者の鼻腔へ突き刺さる。その異様さに勘づき、何人かが変わりいく湖畔と高橋へ意識を向けた。
びり……と、高橋の肌を焼くようなしびれと熱が一直線に襲ってくる。それに割り込んだ天宮が、力任せに投擲された蒼い太刀を腕で弾き飛ばした。清十郎が放った太刀は勢いを止めることなく湖畔を囲む岩山に衝突。その衝撃は岩盤を崩して岩肌の一部を崩壊させた。崩れた岩の滝が、湖畔へと降り注いでいく。
黒い霧は墓標を包み込み、墓標の中へ沈み込ませていく。
落下した岩の雪崩が水中をさらにかき混ぜる。あれだけの透明度を持っていた湖畔は今や地獄にある血の池のように禍々しく、腐臭をまき散らし高い波を立てていた。
うねる水流が渦を生み、暴れ出した魂の制御に高橋は思わず奥歯をかみしめた。錫杖に強い負荷がかかり始める。それは、死者の魂が自分の死霊術で再起動を果たした、その手応えである。錫杖はその負荷に振り回され、暴れ、ねじれていく。高橋はそれを必死に抑えようとするものの、轟々と唸りを上げて荒れる水面の中へと引きずり込まれそうになっていた。
みしり、と錫杖にひびが入る。踏ん張る高橋の足元ごと、高橋の体が水面へとひきつけられていく。
まずい、と力任せに錫杖のコントロールを奪おうとしたその時。
静寂が、湖畔の唸りを押しつぶすかのように君臨する。さざ波すらなくなった水面は、徐々に浮き上がってくる暗い影により切り裂かれた。
「騒がしいな。また貴様らか」
どこか嬉しそうな、若い男の声。喉から発せられる、生者と変わらない声に高橋と天宮はほくそ笑む。
「ええ、何度も失礼しますよ。で、どうですか。再び肉体を得たご気分は」
水面の上に浮かんでいる影は、暗くくすんだ赤い着流しに、影と同化して揺らぐ黒い袴と草履をはいた足元は、ゆっくりと一歩ずつ、水面の上を歩いていく。
高橋の側に立った影は、天宮や清十郎たちを舐めるように見まわした後で、サディスティックな笑みを浮かべた。
「悪くない。この肉体……気に入ったぞ」
短く刈り込んだ黒髪を無造作にかきあげ、腰に差した刀の柄に手を伸ばした。
「そこの死霊術師。この肉体の……生前の名前は何という」
抜かれて垂らされた刀は、漆喰の黒さを持つ刀身だった。高橋はクスクスと笑いながら答える。
「生前の名は、相澤天喜と呼ばれた男の肉体ですよ」




