155:不協和音の訪れ
唐突なことで、誰もが固まってしまい動けなかった。空気まで硬直する中、最初に声を上げることができたのはししろだった。
「な……なにやっとんねん切子!」
切子はししろを振り向きもせず、針を裾の中に戻すと、小柄な巳影の体を抱え上げる。巳影は静かな寝息を立てていた。
「ちょっと眠ってもらっただけ。身柄は私で預かるから」
振り返りししろへと向けられた視線は、ひどく冷えたものだった。
「い……いやいや! 預かるって……意味わかんないっすよ! 一体何を考えて……!」
次に硬直から復帰できたのは紫雨だった。だが当人がまだパニック状態にあり、うまく言いたい趣旨を言葉にまとめられていない。
だがそのパニックすらも受け止める形で、切子は紫雨の言葉が尽きるのを待っていた。その間も、切子の目は冷たさを宿していた。冷静さと冷徹さを見せる色合いに、紫雨の言葉はやがて尻つぼみになっていった。
「ごめんね、説明もなしに。でもそうしないと、巳影くんを出し抜けなかったから」
「……この行動の真意は?」
神木も冷静さを取り戻したようで、静かに言う。しかし顔はまだ困惑の表情でこわばっている。それに切子は向き直って静かにうなずいた。
「おそらく『茨の会』は独立執行印を破り鬼の顕現を狙うはずです。もちろん阻止するつもりですが、聞いた話の通りなら……巳影くんにも悪影響が出ないともかぎらない」
鬼の正体。それは獣と呼ばれる存在と人間とのハイブリッドであることを、切子が淡々と語る。すでに町は異様な加熱を見せており、空気はもはや別物に変わっている。
「そんな空間で巳影くんが今まで通りでいられるのか、誰にも保障はできないはずです」
「そりゃ、そうですけど……でも、それならちゃんと話せばいいだけじゃないっすか。こんな不意打ちだまし討ちみたいなことをしなくても……!」
食い下がったのは紫雨だった。まだ及び腰ではあるものの、瞳にはしっかりとした自分の意思が宿っている。
だが、切子はまぶたを閉じて小さく息をついた。まるで、嘆息のように。
「確かに。巳影くんなら、話を聞いてくれると思う。巳影くんは、ね」
含みを持った言い回しが意味することを、その場にいた全員が理解することができた。
直感的にビジョンが脳裏を走ったのだ。あの、死闘ともいえる人間を超えた存在同士の戦いのことを。
「巳影くんが良くても……巳影くんの中にいる存在は、おとなしくしてくれると思う?」
耳の奥を突くような固く重い沈黙が、場にある音という音をすべて押しつぶしていく。
「仮に暴れられたとしたら……巳影くんを無傷で抑え込むようなことはできない。あの戦いを見たでしょう……私が居合わせたとしても、せいぜい相打ちに持ち込むことができれば幸運、というところ」
ため息を一つ落とし、切子は全員の目を見渡すようにして言う。
「現状において巳影くんは、とても危うい存在なの。『茨の会』もどう利用しようとするかもわからない。打てる先手は打つべきだと思う」
淡々と言う切子の言葉に、誰も何も言い返すことはできなかった。
「でも安心して。巳影くんを傷つけるつもりはないから。安全な場所にしばらくいてもらうだけ。力そのものは、無力化させてもらうけど」
切子が巳影を抱えたまま病室の中央を歩き、言葉もなく出て行ってからしばらく。自ら口を開こうとする者はいなかった。それぞれがうつむき、唇をかみしめ、手を強く握っても無力感にさいなまれる。
そんな状態であることのため、窓の外の木から飛び立つ鳥類の姿は視野にすら入っていなかった。
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「おや、それは大胆な行動に走ったものですねえ」
暗い山道を登る高橋は、歩きながらのんきな声で言った。行く手を遮る木々の一つにとまっていた雀は小さなくちばしで木の皮をつついては、羽根を羽ばたかせ、奥へと飛んでいく。
「あわよくばというこちらの意図など、明け透けだったな」
高橋にこたえる声はどこか朗らかだった。雀は小さな体を前に飛ばし、追う形で歩く高橋へ顔だけを向ける。
「元々彼の中にいる『プロメテウスの火』はこちらの管轄物ですからねえ。区切りがいい今、責任者である我々に戻してくれてもよかったのですが」
雑木林を超え、開けた空間から仰ぐ夜空は、月明りだけが黒い世界の中を切り裂いて輝いている。その明かりが浮かぶ水面の前まで来て、高橋は目の前に広がる湖畔へと目を向けた。
その背後の木々の枝に下りた雀は、くちばしで羽根を研ぐようにつつく。
「さてどうする高橋。この水呪を攻略する方法……何を思いついたんだ?」
高橋の前に広がる湖畔には、さざ波一つも立っていない。夜の色をしみこませた水面は、深く濃く、黒い。
「正確に言えば水呪をどうするかではなく……「彼」の魂に働きかけてみます。独立執行印の拘束力が緩んだ今ならば……」
高橋は袈裟の袖から数枚の札を取り出し、白紙の表面に指先で複雑な文様を描いていく。指先からにじむ血の赤で書かれたそれは、一枚、また一枚と泳ぐようにして水面の上を漂いはじめた。
固く閉じられていた湖畔の水面が、一つの気泡を浮かばせた。それが一つ二つと、水底から湧き上がる「何か」が宙を舞う札に反応を見せていた。
微風が、高橋の頬を冷やした。それは背筋に伝い、身を震わせる悪寒へと変わる。
吹き込んだ微風は泳ぐ札に絡まると、札は瞬時に切り刻まれて塵芥へと消えていく。浮かんでいた札すべてが同時に散った様子を見て、高橋は芝居がかった動きで湖畔へ一礼して見せた。
「突然の訪問を失礼します、わたくしの名は高橋京極。かつての『土萩村』の今を生きる者です」
『生者が何用か』
耳朶と脳髄が揺れるような振動とともに、若い男の声が聞こえた。高橋の口元がつりあがった。
『貴様、死霊術師か』
「はい。今はあなたの声を肉付けする程度ですが」
水面に浮かぶ気配は笑っているように感じらえた。
「あなたには、ぜひ現世へと顕現していただきたいのです。斬鬼と呼ばれた鬼の力を、我々にお貸しいただきたい」
枝にとまっていた雀は、水上に浮かび出した黒い霧のようなものを見つめていた。その霧には、人の姿のようなものが「奥」に浮かび上がっている。
『俺を、現世へ……? 正気か』
訝しむような声に、高橋は笑顔で答える。
「はい。あなたもまた、『土萩村』の住人。我々はそれをよみがえらせようというのです、鬼のあなたがいなければ盛り上がりにも欠けるというもの」
わずかな間をおいて、霧は音もなくとけていった。水面は何事もなかったかのように、冷たい月の光を映している。
「消えてしまったぞ、いいのか?」
「まあ今日は挨拶だけですし、コンタクトが取れただけでも良しとしましょう」
高橋は眠たそうにしている雀を肩にして、険しい山道を下りていった。




