150:千尋の谷、深淵は奈落のごとく
口火を切ったのは清十郎だった。手の中に太刀を顕現させるとともに走り出し、構える新山の元へ真正面から突っ込んでいく。
「小細工はなしか」
迎え撃つ新山は鼻で笑う。両足を大きく横に開き、腰を深く構えた。まるで突進を真っ向から受け止めるような形だ。蒼い電流をほとばしらせる太刀は、助走の勢いを乗せて新山の頭上から真下へと振り下ろされた。
空気が振動する。鈍く重い衝撃音が、乾いた大地の上を走った。
振り下ろされた太刀は、新山が上にあげた腕を打っただけで、その皮膚には切り傷一つできていなかった。
舌打ちしながら清十郎はとっさに後ろへと離れる。その動きに並行するように、地面を低い位置で走る切子が前に出た。手にしたナイフを逆手に持ち、地を駆ける。その姿は新山の懐に飛び込む寸前で、真横へと飛ぶ。切子がいた位置にはすでに、清十郎が投擲した太刀が迫っていた。
雷鳴のような衝撃音が耳をつんざく。飛ばされた太刀は再度新山の腕ではじかれたものの、新山は大きく後ろへとのけぞり、バランスを崩した。その横合いを、きらめくナイフの軌道が走った。しかし、斬撃を放った切子の顔が凍り付く。
新山の脇腹を襲ったナイフは、確かに狙い通りに迫り、当たる。だが、切子のナイフは新山の和服を切り裂いただけに終わった。ナイフの刀身から伝わってくるものは、分厚く固い筋肉がまとう硬質さだった。
自分の攻撃が全く芯に届いていないと感覚で判断した切子は、間合いを取るためさらに横へと足を運ぶ。しかしその視界の端から迫ったものに、完全な反応はできなかった。
真横を薙ぐように振り回された新山の腕は、ラリアットのような形で切子を捉えていた。丸太よりも太い腕は、長身の切子の体を易々と地面からはぎ取り、吹っ飛ばす。
新山の腕が当たる瞬間、腕を上げてガードした切子だったが、衝撃まではこらえきれずに地面へと投げ出された。二度、三度と体は地面を跳ね、受け身すらとれずに転がってしまう。
すぐには立ち上がれない切子を一瞥し口角をつり上げる。新山の視線は次の投擲を準備していた清十郎を刺し、動きを悟られた清十郎の動きが一瞬ためらいを生んだ。
踏み出した新山の脚は、固く乾いた地面を割って亀裂を走らせる。五メートル以上は離れていた清十郎との間合いは、その一足だけで縮められた。
飛び蹴り。空を走り腰のうねりを加えて放たれた右の脚は、腕を上げてガードを固めた清十郎の体を軽々と蹴り飛ばした。宙に飛ばされた清十郎は、身を錐もみによじらせて地面へと沈んでしまう。
とどめをさすつもりか、新山は倒れて動けずにいる清十郎へゆっくりと向き直る。しかしその背中に迫っていた猛熱の塊は、新山の体躯を火炎で包み爆風を周囲にまき散らした。
火柱が立ち昇り、気流が炎の波を高く空へと巻き上げていく。巳影は自らが撃った『黒点砲』に手応えを感じられず、荒い息を吐いてもう一撃を放つため構え取った。
炎の壁が割れていく。乾いた空気をさらにとがらせていく熱気をかき分けるように、火柱を弾き飛ばして現れた新山は、喉の奥でくつくつと笑っていた。
ダメージは、見られない。効果はせいぜい新山の上着を焼いたぐらいで、そこからは屈強な筋肉の鎧が姿を見せた。
新山の目が巳影を捉えた。巳影が第二波を放ったと同時に地を蹴り、自ら火球へと向かっていく。迫りくる灼熱の弾丸は、新山の裂帛する気合の声とともに打ち出された拳により、地面へと強く撃ち落とされた。足元で膨れ上がる灼熱と爆風を背にして走る新山は、疲労と反動で動けずにいた巳影の腹部へ深く拳を突き、強引に真上へと拳の軌道を変えて殴り飛ばす。
巳影の小柄な体が放物線を描いて飛び、地面へと激突する。それを追おうと踏み出した足が、ふと動きを止める。
後方、離れた位置から伸びた霊気の糸が新山の脚へと絡みついていた。新山を挟む形に移動していた神木と紫雨は地面に糸を這わせていた。新山はそれをつまらなそうに見ると、片方の足を上げて、強く地面へと足の底を突き立てた。
踏鳴と呼ばれる、体内の力を放出する動作は細い霊気の糸を瞬時に蒸発させた。それでも再生し巻き付く糸だったが、びりびりと震える大気の振動により、新山の元へとたどり着く前に崩れてしまう。
だが、その糸を伝いくる白い閃光は、新山の巨躯を包み込んで爆風をその後ろへと吹き付けた。帆夏に肩を支えられながら、拳に握った複数の札を消し炭にし、祝詞をたたきつけたししろが大きく息をつく。その顔から緊迫しひきつった表情が消えることはなかった。
煙る白い粒子の奥から、ゆっくりと歩く新山の姿が現れた。その肉体にはやはり、傷一つついていない。
蝶子がハンドベルを手に動こうとするが、ししろが手で制し、蝶子の足を止める。
「この程度か。天宮どもがてこずっておると聞いていたが……儂はどちらも過大評価していたようだな」
悠々と立ち、鼻で笑う新山からは疲れすら見えない。
新山の攻撃を受けて地に伏せる巳影たちは、ようやく起き上がることができた。だが、膝は震えて力が入らず、叩き込まれた打撃は激しい痛みを生んで、もうまともに動くことすら難しくしていた。
息を切らせるししろは、肩を借りている帆夏へ視線を送った。赤の文様越しに新山を見る帆夏はぐっと歯を食いしばった。
「あの人の体……もう人間のものじゃなくなってる」
帆夏の言葉に、もう一度太刀を握った清十郎は「通りでな……」と舌打ちする。巳影は片膝をついて立ち上がれず、腹部を押さえたまま新山を右目だけで視界にとらえた。
赤い視界で見る新山の巨躯は、さらに膨れ上がり大きくなった影をまとっている。それは見覚えのある異形の姿を形作っていた。
「……とっくに人間辞めとったもんな、くそ爺」
吐き捨てるししろに、新山は耳元まで口の端がつりつり上げる笑みを浮かべた。人間の表情筋では作れない笑みの形は、獲物を前にする絶対的な捕食者の愉悦を現すものだった。




