15:樹坂帆夏という少女
「ししろさん、飛び出して行っちゃいましたけど、どこまで……」
「それは大丈夫。すぐに見つかるよ」
校門を出てすぐ、右手側。通学路である歩道の上、ししろらしき人影がしゃがみこんでいる。
「し、ししろさん!」
巳影は慌てて駆け寄り、膝をついているししろの側でしゃがんだ。
「だ、大丈夫ですか! もしかして何かから攻撃でも……」
「ぜー、ぜー、ひー、ひー」
ししろは青い顔に汗をびっしりと垂れ流し、呼吸を粗くしていた。しかし見た限り怪我などしている様子はない。
「う……ウチ……」
苦しげに言葉を吐いたししろはがくりとうなだれる。
「ししろさん!」
「大丈夫。単にバテてるだけ」
小走りでやってきた切子が冷静な声で言う。
「ししろ、走るの苦手だから。もともと持久力ないの」
「さ、酸素ぉ……」
その後バスに乗り、落ち着きを取り戻したししろは「すまん……」と申し訳無さそうにうつむいた。
幸い朝のラッシュが終わり、田舎町のバスは三人の貸し切りになった。最後部座席に陣取った巳影と切子は、ししろを真ん中に挟んで座っている。
「あいつ……樹坂帆夏とは、幼馴染なんや」
樹坂帆夏。それが『独立執行印』の一つを守る封印管理者の名前なのだろう。ししろはポツリと語りだした。
「昔から目が不自由で、なおかつ体も弱い……帆夏に、あのホトトギスがなんか悪さしよると思ったら、ついカッとなって飛び出してもうた」
「そうでしたか……」
聞く限り、元気に走り回れるタイプではないようだ。巳影は病弱な印象を受けた。
「巳影、もしよかったら……帆夏と仲ようやってくれんか。お前とはおない歳や」
「じゃあ、その人は高校二年生なんですか?」
「通えていたらな……今は休学中で、家からほとんど出られん」
その家は、町外れの山の麓にあるらしい。バスでも結構な時間がかかる。もし通学ともなれば、かなり早い時間に出なければならないだろう。今はその余裕はない、とししろはつぶやくように語った。
車窓から見える景色には、広い田んぼが続き始めた。だが、背の高い雑草が目立ち、水気はない。バスは荒涼とした、乾いた地面へと入り、進み続ける。まだ朝だと言うのに曇り空だからか、広がった田園風景は寒々しいものに見えた。
バスが停止したのは、民家もあまり見なくなっていった、土の車道だった。昔ながらのブリキ看板を持ったバス停で降りると、冷えた風が肌を撫でる。
「学校から一時間ほどかかりましたね……」
「もうここは、町の端っこみたいなもんや」
周りは小高い山で囲まれている。この山が県境となっているのだろう。
「こっからは山道を歩くで。迷わんよう着いてきい」
木々に挟まれたトンネルのような山道に入っていく。曇り空に加え、光源らしきものはない。夜はどう移動するのだろうか。道といっても、狭く獣道と言ってもいいほどの山道だ。
先頭を歩くししろと、後ろについた切子に挟まれる形で歩いていく。なだらかな坂道が続き、軽く息が上がり始めた。顎先まで落ちてきた汗を、手の甲で拭う。
坂道が終わると、石畳の階段が姿を見せた。見上げるほどではないが、かなりの段数だ。
「あの、ししろさんは大丈夫ですか? 結構早いペースで歩いていると思うんですけど」
「ん、まあ……歩き慣れてるからか、ここの道は何故かそんなに疲れへんねん」
ししろの息も若干あがっていたが、校舎から校門手前でバテていた時ほどではなかった。
「この階段を上がればすぐやけど、一息つくか?」
「いえ、ならば一気に行っちゃいましょう。見てるだけでも疲れそうですから」
ししろと互いに残り体力を相談しながらの歩きになるが、後ろにいる切子は息一つ乱れていない。軍隊仕込みは伊達ではないようだ。
やがて一行が階段を登りきると、開けた広場が現れた。太く長い枝を持つ木々がそびえ、飛び石が敷かれたアプローチらしき道が伸びている。その先に、小さな古民家のような佇まいの家が建っていた。
(まるでジブリ映画に出てくるような景色に見えるな……)
確かに田舎の家ではあるが、自然とうまく混じり合い、牧歌的といえる。晴れていれば、心地よさそうな景色に感じるだろう。
玄関先まで歩き、チャイムをししろが押した。遠くでチャイム音らしき音がなるものの、それに反応する様子がない。
空気が、重たいものに変わっていく。ししろは何度かチャイムを押すものの、やはり返事らしきものはない。
「……不在、ですか」
脳裏に嫌な予感が走った。あざ笑う高橋京極を否が応でも思い出してしまった。
「一応合鍵はあずかっとる。入ってみて……」
ししろがドアに手をかけた時、その横顔がひたりと凍りついた。
「……開いてる……」
蝶番がきしんでドアが開いた。同時に、ししろは無言のまま玄関へと飛び込んだ。巳影の後ろから切子が続く。その手には、二本のナイフがすでに握られていた。
「まさか……もう襲撃が!?」
遅れて巳影も玄関へと入った。瞬時、ぐらりと脳が揺れる。平衡感覚が失われ、巳影は思わず床に倒れ込み、手をついた。
「君、何者かな。魂が重複しているね。実に奇妙」
まだ揺れる視界の中、人影がゆっくりと歩いてくる。女性の……少女の声に聞こえた。
(何だ、高橋京極の攻撃か!?)
体勢を立て直さないと……。焦る気持ちが、余計に足元を怪しくしていく。立ち上がろうとするものの、目が回ったような感覚に陥り、前もまともに見られないでいた。
「まあ、君が何者だろうと私は興味ないんだけど、邪魔されちゃ困るわけよ」
淡々と言う少女の声に、巳影は「邪魔……?」とぼやけた視界を持ち上げた。
そこには。
「今ね、ゲームのRTA配信やってたの。せっかくベストタイムが出てたってのに」
目の前には、ゲームのコントローラーがぽつんと置かれていた。
徐々に視界と揺れる脳が一致していき、重たい頭を上げた。
そこは、玄関先ではなかった。
「知らない人が入ってきたから、びっくりしてコントローラー落としちゃったじゃん」
大きな、スクリーンほどある液晶テレビの前に、人影が座っている。ピンク色のフードを被り、座ったままの背中は丸い。人影が振り向いた。
「もう回復したの? タフだねえ」
フードの奥で、少女らしき人影がニタリと笑う。まだふらつく頭をかかえながら、巳影はなんとか立ち上がった。
「き、君は……高橋の仲間か? 樹坂帆夏という人は……」
「ん? 何で君が私の名前知ってんの」
「……え?」
視界がクリアになってきた。
薄暗い部屋で、カーテンは閉じられている。かのようかに見えたが、窓の部分にはタペストリーが垂れ幕のように垂れ下がっており、壁にはいくつものポスターやなにかのグッズが並んでいた。
どれもこれも、アニメやゲームのキャラクターたちだった。
「とりあえず君には責任とってもらうよ」
ぽん、と巳影に投げ出されたのは、ゲームのコントローラーだった。
「私の配信邪魔した変わりに、君がベストタイムだしてよ。今すぐ、ここでね」
底意地の悪そうな笑みだった。被ったフードを取ると、二つにまとめたお団子ヘアが現れる。
「君は私がプロゲーマーの樹坂夏帆って知ってて、配信邪魔しに来たアンチってところかな? なーんてね……くふふ」
「……ぷ、プロゲーマー……!? な、何を言って……」
混乱する巳影は、はたと息を呑んだ。
「どうしたの。ああ、珍しい? この『目隠し』が」
少女の目は、頑強そうな鉄の鎖で何重にも巻かれ、塞がれていた。