147:斜陽の面影
高橋の錫杖が放つ黒い霧に、神木は気力を振り絞って糸を放つ。一本の糸から蔦のように伸びた細い糸が、さらに細い糸を生み、網となって黒い霧を包み込んだ。
網状となった糸に囲まれた黒い霧は、内部でさらに細分化する糸の先端に貫かれる。時間にすれば数秒。黒い霧は網の中で霧散し、消滅した。
「霧の粒子一つ一つに糸を伸ばしましたか……大した忍耐ですね」
「根気には自信があるんだ、それに細かい作業は得意な方でね」
強がりであることは、神木の消耗具合で明らかだった。息は乱れ、笑いを作る顔には疲労の色が濃く張り付いている。
高橋はそこを突こうと霧の第二波を撃とうとするが、耳を突く音とともにぶつかった不可視の衝撃波により大きくのけぞった。神木に肩を貸しながら、互いに支えあう形で踏ん張ることのできた蝶子が、手にしたハンドベルを打ち鳴らす。
音の壁が迫る。高橋は舌打ちを残して後方へと下がった。霧をまとわせた錫杖で衝撃波の一点を突くと音の壁は崩壊し、暴風とともに大きな鐘の音が背後へと飛び散っていく。いつまでも耳に残る鐘の余韻は、不愉快と言わんばかりに高橋の目つきを険しくさせた。
「どちらの攻撃も決定打になるわけではない……しかし無視はできない、確実にこちらのアクションを一つ潰してしまう……厄介そのものですよ、あなたたちは」
そう言って高橋は裾から長い釘のようなもの……棒手裏剣を指に複数本挟み、手を横一閃に振った。高速で飛ぶ棒手裏剣は、蝶子がとっさに振ったベルが放った音の壁により弾かれる。地面へと落ちる棒手裏剣は鋭い切っ先を深く沈めた。
投擲は届かなかったにも関わらず、高橋は棒手裏剣をもう一振り、二振りと飛ばす。そのたびにベルが打ち鳴らす音の壁に阻まれ、地面へと散らばっていった。
「……!」
ぞくり、と神木の背筋を不快な寒気が撫でていった。瞬時に手を大地に張りつけた。それは高橋が錫杖を地面へ突き刺す動作と同じタイミングだった。
地面に散らばって落ちて言った棒手裏剣が、すべて同時に黒く弾ける電流をまとう。黒い光は神木と蝶子を囲むように散りばめられていた。
弾ける音。一瞬で空気も焼く光は、地面より伸びて鳥かごのように神木らを包んだ霊気の糸に絡みつかれた。
「とっさの判断、お見事です。しかし」
棒手裏剣が光をなくし、ただの金属となって地面に落ちていく。鳥かご型の糸も同じく消えるものの、神木はしゃがんだままの姿勢から、立ち上がれずにいた。
大きく肩を上下させ、破裂しそうになるほどの肺をおさえている。呼吸すらまともに行うことができずにいた。膝に力が入らず、体は崩れ落ちる寸前だった。
「体力も気力も限界が近そうですね、玲斗」
とどめを刺そうと歩み出た高橋は、笑みを消して目の前に立つ蝶子を見据える。
立てない神木の前に立ちはだかる蝶子もまた、万全の状態ではなかった。息は途切れ途切れ。緊張と恐怖で体は震えている。だがその目は……高橋を敵として見る目からは、尽きることのない闘志が宿っていた。
「黛さん……そこをどいてくれませんか」
冷めた口調で高橋が言う。しかし蝶子は首を横に振り、ハンドベルを強く握りしめた。
「私は戦うって、決めたから……何とだって、あなたとだって」
しばしの間、蝶子と高橋の視線がぶつかり合った。その視線を先に下げたのは、高橋だった。ため息とともに、高橋は背を向ける。
「興覚めしました。僕は撤退します」
淡々と言う高橋に、神木は「待て!」と手を伸ばそうとするものの、痛みに負けて体を地に沈めてしまう。蝶子が慌てて駆け寄り、もがく神木に肩を貸した。
その様子を肩越しにみていた高橋の顔には笑みはなく、冷えた目をしていた。
「どうした、切り上げるのか?」
いつの間にか。高橋の側に立った軍服姿の男が愉快そうに笑いながら言う。屈強な肉体に、尖った鷲鼻。口は口角に向けて吊り上がっており、消耗している神木と蝶子を見て鼻を鳴らす。
「なるほど、雑魚では気が引けるか」
軍服の男……『響鬼』は喉の奥で笑う。
「そんな理由ですらありませんよ。……ばかばかしくなりましてね」
「去るのはいいが、ここの防衛はどうする。塔の中身は連中にばれてしまったが?」
「くれてやりましょう。困るのは新山さんらだけですから」
言いながらも、高橋はその場を後にした。後ろ姿は黒い霧に包まれ、瞬時に晴れた瞬間、その姿はどこにもなかった。
「やれやれ、あれは相当苛立ってるな」
『響鬼』はこちらを……蝶子を見ると小さく鼻を鳴らして笑った。
「さて。俺が相手をしてやってもいいんだが……」
蝶子はこちらに向き直った『響鬼』から、神木を守るように立ってハンドベルを握りしめた。それを『響鬼』は面白そうに見据える。腰に下げた軍刀の柄に手を伸ばすが、
「……いや、やめておくか。合流されては厄介だからな」
軍帽のつばを深く下げて『響鬼』は後方に目をやった。離れた場所……駅にそびえる塔の方面から、走ってくる人影が見えた。
「逃げるの……?」
ベルを握る蝶子が、踵を返す『響鬼』の背中へ言葉を投げる。首だけを回し言う『響鬼』はにたりと笑って言った。
「ずいぶんと成長したものだ。つかんだその音域……研鑽を忘れるなよ」
周囲にノイズのような乱れた音が散らばり、『響鬼』の姿にもテレビで見る砂嵐のようにブレはじめ、雑音が消えると同時にその姿も掻き消えていた。
空気が、途端静かなものとなる。
そこで初めて、蝶子の張り詰められた心は緩んで尻もちをついた。膝から力が抜けてしまい、うまく立つことができない。
「お、おいおい……大丈夫か」
満身創痍の神木が何とかといった様子で蝶子の側でしゃがみ込んだ。蝶子は力の入らない体を無理やり起こし、「ごめんなさい……」と頭を下げた。うつむいた蝶子の肩を、神木が優しくたたいた。
「ここから挽回していけばいい。それだけだ」
思わずこみ上げてくるものを抑え、蝶子はただうなずいて気丈な表情を取り戻した。




