143話:杞憂か、予兆か
不必要なものは、進化の過程でそぎ落とされていく。骨格、体躯、髪の毛は抜け落ち弱々しい皮膚は分厚い肉に覆われた。
大きく裂けた口は耳元まで開かれ、並ぶ歯はどんな肉でも咀嚼できる強度と大きさに変化していく。肥大化した口部に押しやられる形で鼻は上へと押しやられ、目は左右に引っ張られ、耳元の側まで後退する。
元は小柄な老人だった男性の体は、今や二メートルを超える肉体へと変化していた。
その様子は、広い室内に立ち並んだ柱の中で見ることができた。直径五メートルの柱は透明な強化ガラスで作られており、中身は培養液で満たされている。
母胎で眠る胎児のように、老若男女様々な人間が柱の中で姿を変えようとしていた。
「こちらでしたか。真面目に仕事をこなしていて、結構なことです」
柱の内の一つを見上げていた蝶子は、門から現れた高橋に向き直って一礼する。
「しかし、あなたにまだ異界の空気になじませる処置はしていません。肉体だけなら健常なものなのです、キリのいいところで現実世界へ戻るように」
高橋は閉じていく門の奥に見える赤い空を見つめ、小さく笑う。
「あなたとこうして並んでいると……奇妙な縁を感じますよ」
蝶子の隣に立った高橋は、同じように柱の中の培養液を見上げてつぶやいた。
「同じ「悪」として生まれた存在です。今のあなたを確保できて、僕は安らぎを覚えています」
蝶子の表情は大きく変わらないものの、かすかに頭をかしげる様子を見て、高橋は笑った。
「僕が感傷を抱くなど……。ひょっとしたら、僕は寂しかったのかもしれませんね」
「……」
「……らしくないことを言ってしまいました。点検を終えたら、いったん戻りましょう。彼らをこちらで迎え撃つのなら、準備も必要ですからね」
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「奇襲?」
異口同音。神木から出た提案に、その場にいた誰もがおうむ返しに言った。
黛蝶子が姿を消してから一夜明けた放課後。神木は巳影たちだけでなく紫雨も清十郎もオカルト研の部室に呼びつけて言った。
「そうだ、奇襲をかける。狙うのは……異界『土萩村』の駅中央に鎮座したあの塔だ」
神木はホワイトボードに簡単な地形を書き込んでいく。それは見知った駅前の街並みだったが、駅には大きな丸を赤いペンでつけた。
「前回で桐谷という少年がそこを守るように待っていたが、あれだけの手練れを置いておく場所なんだ……必ず逆転につながる手がかりがある」
神木の言葉に少し考えた切子は挙手し、口を開いた。
「またあの少年が番人をしていたら……どうしますか。戦うだけで精いっぱいになりますよ」
「だからこそ奇襲なんだ。正面から仕掛けても、苦戦は必至だしね」
神木はホワイトボードにいくつかの磁石を貼り付け、その中の一つを丸で囲った駅前に置いた。
「あの異質な空間は『茨の会』の制御下にあるだろう。けど、『帰らず小道』からの侵入ルートなら気取られる心配はない。そこからのスピード勝負で用件を済ませる。目的は調査……あの塔を調べたい」
帆夏、紫雨、ししろは黙って神木の言葉の続きを待っていた。切子、清十郎はその目に剣呑なものを混じらせている。
「あんな異物がただのオブジェな訳がない。それに、町に出ている影響も考えた方がいいだろうし」
「もしかして、町の人たちがやたら活気づいてるのって……」
巳影がぼそりと言った声に、神木はうなずく。
「もう暴走寸前の域だ。町を取り巻く異様な熱気は、『独立執行印』がただ解除されただけの影響を超えている」
「……電撃戦を仕掛けるのはいいけどよ、センセー」
神木の言葉に割って入った清十郎は、ホワイトボードを見ながら言った。
「当然守りの駒がいるだろ。そいつはどう出し抜くんだ?」
「僕が出る」
すぐさま返ってきた言葉に、清十郎だけでなく部屋にいる全員が言葉を喉に詰まらせた。
「敵は油断するだろうね。その隙をついて……だよ」
「いや、無謀すぎるだろ。あんた格闘もろくにできねえじゃねえか」
首を横に振りながら、清十郎がなだめる口調で言う。
「無茶は承知さ。でも、非戦闘要員だからこそできる囮作戦でもあるんだ」
それに、と。いつの間にか強く握っていた手を震わせながら、神木はしぼりだすように声を震わせた。
「……蝶子がいるとしたら、あの塔だ」
その言葉に、清十郎は押し黙った。
「蝶子には直接的な戦闘力はない。利用するとしたら、人質にして僕たちを釣るのが一番効果的だろう。そして僕たちの今の目的地と『茨の会』が守備に回る場所はそこしかない。おあつらえ向きだろう」
「……自棄になってるわけじゃあねえよな」
清十郎のまっすぐな視線を受けて、神木はゆっくりとうなずく。
「焦っているのは事実だけどね。だけど思いつく限りの案で一番実用的な提案をしたつもりだよ」
真正面からそう返した神木に、清十郎はため息をついてうなだれた。
「前に出るのは僕一人だ。その間に、君たちには改めて塔の調査を担当してもらう。それが『茨の会』に踏み込む第一歩になるはずだ」
全員に反論は、なかった。紫雨も今回は口を出さず、兄の決めたことにただ沈黙するだけだった。しかし、誰もがもどかしい気持ちを表情に出している。
「大丈夫さ」
そんな心境を感じ取ったのか、神木は明るい声をだして言った。
「僕は死ぬつもりはないし、それなりの考えも備えもある。たまには大人にもいい恰好させてほしいな」
笑顔には何の裏も感じさせない、むしろ清々しさのようなものがあった。しかしそれが妙に、見る者に胸騒ぎを覚えさせていた。巳影も同じく、心に生まれたざわつきを、今は押さえつけるしかなかった。
それに。
(いや……いざとなれば、俺が駆けつけてしまえばいい。ベタニアのあの力を使えば、走る速度だって常人の域を超えられるはずだ)
そんなつぶやきを胸に秘めて、巳影は神木の提案にうなずきを返した。