137:災いの手ほどき
状況は極めて不利。切子がそう判断するのに一秒もかからなかった。
戦場において、一対一でなければ自らを含め駒と数えるよう、武術の師匠に教わった。この際将棋でもチェスでも、何でもいい。勝利条件と敗北条件がはっきりする。
こちらの敗北は……一つでも駒を取られること。
戦場にいる駒は柊切子、樹坂帆夏、神木玲斗。戦闘力として数えらえるのは……自分しかいないだろう。神木はディフェンス、サポート寄りの性能の駒だ。しかし戦闘に関してはほぼ素人。
樹坂帆夏に関しては、非戦闘要員。つまり守らねばならない駒である。ほぼ戦えない駒を二つ背負って戦える相手ではない。
来間堂助。実力は大場清十郎と同等以上。『暗鬼』をも一太刀で斬り伏せている。そんな相手を前にして、二つの駒を守り切れるか……考えるだけで絶望的な気分になった。
しかし、それは相手も同じく都合が悪いのか、苦い顔をしている。
「まいったなぁ。ここで戦うってのは……避けたいな」
その来間堂助は刀を取り出すものの、刀身を抜き放つ様子は見せなかった。それに彼自身からも、殺気の類いは感じられない。
「何をしに来たのか……うかがえるかな」
切子はいつでも飛び掛かれるようにナイフを握りしめ、膝を軽く曲げて体をリラックスさせていた。
対する来間は困惑顔のまま黙っていたが、やがて刀をバイクに戻すと両手を挙げて「提案があるんだけど……お互い無傷でいるうちに」と、眉をしかめた切子へ苦笑いを向けた。
「俺はね、調査に来たんだけど……君らの仲間の飛八巳影くんについてね」
切子は何も返さず、構えも解かない。帆夏も神木も、自らの戦闘能力を自覚してのためか、言葉を挟もうとしなかった。
「ぶっちゃけ君らと会ったのは最悪の偶然。むしろ俺としてはこのまま踵を返して逃げ帰りたいところだよ。無暗に戦ったところで……互いに不毛な結果が待つだけだしね」
言う来間の目は、真剣なものだった。誰もが無言のままで、数秒間沈黙が張り詰めた。やがて、切子は短く息をつくと共に、握っていたナイフを下ろす。
「調査というのは……具体的にはどんなことを?」
臨戦態勢は解いた切子だが、すぐにナイフを振れるよう、腕の力は維持したままで言う。
「……『プロメテウスの火』さ」
「プロメテウス?」
切子がおうむ返しに言う。確か、ギリシャ神話に登場する神の名だ。詳しいことまでは知らないが、神話の名前を持ち出して調べようとしたものは何なのだろう。
「昨日桐谷くんが持ち帰った報告から、いろいろ考えなきゃいけないことが分かったんだ。……飛八巳影の中にいる獣の正体、とかね」
そこまで聞いて、切子はまだ無言を保っていた。その沈黙に促されたのか、来間は自分から口を開いた。
「君らも名前ぐらい聞いてるんじゃないかな。『月輝ル夜ノ部隊』の名前は」
「……。あなたたち『茨の会』の前身、か」
「そうなんだけど、その頃と今とじゃ少し方針が変わっててね……。とある存在に関する実験と研究を繰り返していたんだ。もう耳にしてるんじゃないか? 獣と称する……底知れぬパワーを持つ存在のことを」
静かだった空気がざわつき始める。後ろで控えている帆夏も、隣にいる神木にも若干の動揺が走っていた。
「その獣……中でも群を抜いて強力な力を持っていた三体は『オリジンクラス』と呼ばれ、長く研究され様々な実験も行われた。その三体のうち一つは凍結。一つは人体に宿り、もう一つは実験を暴走させて逃亡した……それが『プロメテウスの火』。けど、慌てて追跡したものの、形跡は途絶えてしまったんだ」
あげていた両手の片方を下ろし、人差し指で切子たちの背後を指さした。
「そのトンネルの跡地でね」
切子は固唾をのんだ。それは異物のように感じられ、なかなか飲みこむことができずにいた。
「そこからややあって、部隊の名前は『茨の会』となったわけだけど……俺は実験暴走を起こし管轄下から逃げた獣が、本当に飛八巳影の中にいる存在と同一なのかを確かめにきた、というわけ」
長話ごめんね、と来間は疲れた顔で言う。
「と、言うわけで俺はこれから瓦礫を掘り起こしながらの検分作業をしなければならない。……納得いったら、おとなしくどいてくれないかな」
少しおどけた様子で言う来間に、切子は「一つだけ」と言って質問する。
「仮に。その『プロメテウスの火』と呼ばれる存在と、巳影くんの中にいる存在が同じものなら……どうするつもりなの」
「可能なら、連れて帰る。いや、この場合拉致というか誘拐というか。そこは申し訳ないんだけど、飛八くんに拒否権はないんだ。元々、こちらの研究対象だったのだからね……返してもらうだけの話だよ」
「それに、巳影くんの命の保証は」
「ないと思うよ。求めらえてるのは『プロメテウスの火』だけなんだ。まあ何らかの実験体ぐらいにはなるかもしれないかな」
「……それを聞いておとなしくうなずくと思うか」
平然と言ってのける来間に、神木は苦々しい口でつぶやく。
「いいのかい、かばって。君らも感じ取ったんだろう? 飛八巳影の中から、鬼と同じ気配を」
「それでも、彼は僕の生徒だ。教師として守る義務がある」
言い張った神木に対し、来間は冷笑を浮かべて喉を鳴らした。
「今時珍しい熱血センセーだね。じゃあさ。何故鬼と同じ気配がした理由まで聞いて、そのスタンスを保てるかな」
場の空気が、いびつな沈黙で凍てついた。その中を一人平然としている来間は笑いながら言う。
「鬼とはね。この村の業が生み出した存在なんだけど……それを監修していた新山の一族と『月輝ル夜ノ部隊』は、封印された後それぞれの人間に手を施したんだ。獣と人間の融合実験をね」
言葉が喉の奥で止まってしまう。切子も神木もその場から動けず、かろうじて動けた帆夏は強く来間をにらんで叫ぶように言う。
「なんてことを……そんなことをすれば、人間が人間じゃなくなる……っ!」
「その通り。だから融合体は鬼と呼ばれる姿と力を手に入れたのさ」
激昂する帆夏の様子が面白かったようで、来間はテンションをあげてつづけた。
「獣の力を支配した生体兵士を作る……それが『荊冠計画』と呼ばれたものだよ。旧日本軍も肩入れしたさ。もちろんその時のパイプは『茨の会』とつながったままだ」
来間は無言で振り下ろされたナイフの一閃を、とっさに飛び下がって回避した。
「短気は損気。雑だったよ、今の攻撃」
にこやかに言う来間へと、切子は追いかけナイフを振るう。
「まあ、ここは退散しようか。しゃべりすぎたけど、あながち気分がいいもんだ」
大きく真横から振られたナイフの刃を潜り抜け、バイクへと飛び乗ると来間はすぐさまにハンドルを絞った。急発進するバイクは飛び掛かる神木の霊気の糸をぎりぎりでかわし、エンジン音を空に高く響かせながら、猛スピードで旧街道から去っていった。