134:嚆矢と現実
初めてあの声を聞いたのは、真っ暗な闇の中だった。
体中に痛みがあり、声すら上げられない。そもそも、意識があったといっていいものか。今でもうつろな感覚に思える。
『逃げ伸びた先でこうなるとはな。まったくの皮肉』
頭に熱い鈍痛がこみ上げてくる。どこか遠くから、地響きを鳴らしながら近づく気配は、とても大きな獣だと思った。
『小僧。このままではお前は死ぬぞ。それでいいのか』
口を開けば、鋭い牙がぞろりとそろっている。その口元が、不敵にも笑っているようにも見えた。
『私は困る。駆け込んだ先の肉体が死んでしまうなど、笑い話にもならない。これでは私も消滅してしまう』
遠くに、灯のようなものが見えた気がした。ひっそりと、しかし確実に闇を晴らす灯だ。
『死にたくないのなら……私と取引をしないか。提案がある』
今自分の体がどうなっているのかわからない。這いずって、少しでも遠くに見える明かりへと手を伸ばしていく。
『この肉体も相当な重症を負っている。それを、私が回復させてやる。やり方は、多少強引だがな』
手を伸ばす。這いずって、近づこうとする。
『だが、私は大きく消耗してしまう。そしてそこを連中に捕まるわけにもいかない。だから小僧。貴様の心の中に、私を匿え。私が回復するまでの間でいい』
伸ばした腕が、傷まみれで服も赤く染まった腕が、小さな焔を手にした。煌々と燃える火は、握りしめると手の中からあふれるほどの大きさになり、周りの暗闇を照らしていった。
『感謝する。私の名前は■■■■。発音できないなら……ベタニアと呼べばいい』
感覚もなくなっていた足に、腕に、体に力が湧き始めた。這いずりまわっていた体を、ゆっくりと立ち上げる。
『治すついでに、ほんの少し力を分け与えてやろう。破損した肉体の修復に使うパーツに、細工を施しておいた。私からの心づけとでも思えばいい』
傷口から垂れる血液が、同じ赤色でも輝きを持った赤に変わる。それは体中を照らし、傷の上を烈火が走り、傷口から体内へと入り込んでいった。体が燃える。火と、同化していく。
『お前の血は、とても美しく燃えるな』
気に入ったぞ、と。獣はすでに、自分の頭の中にいた。
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病室へと集まった面々へ、巳影は淡々と語った。それぞれ備え付けのパイプ椅子に座り、巳影が口を閉ざすまで質問することもなかった。
清十郎は腕を組んで口を一文字に結んでいた。どこか不機嫌そうに見える。
続いて訪れたししろと帆夏。最後に放課後現れた紫雨と切子がそろってから、巳影は口を開いた。自分の中に、なにかがいるということを。
「……これが、事の始まりってやつですか」
話し終えて一息つき、巳影は改めて皆の顔を見渡す。
「隠してきてごめんなさい。説明しようとしなかったのは……俺の判断です。いたずらに混乱を招きたくなかったことと……警戒されたら、動きにくくなるかなという、個人的な理由です」
巳影の視線が、自分のつま先へと落ちた。病室に固い沈黙が佇んだ、が……それを一番先にかき消したのは、紫雨の拗ねたような口調の声だった。
「別に悪いことじゃないでしょ。岩盤崩落事故……そんな状況じゃ、誰だって助かりたいって思いますよ」
目を点にしたのは、巳影だった。
「藁をも掴む思いってやつでしょうに。死にかけてる刹那の瞬間に、良い悪いも判断することはできないっしょ」
座った目を巳影に向け、紫雨はたて続けに言った。
「隠してきたことに関しては、特に触れません。プライベートなことですし、なんとも思わないです。あ、そっか、ぐらいで」
「そ、そっか……って」
「むしろ何の秘密もなく炎を出せる人の方がよっぽど怖いですよ。力の出所が知れただけで、ただ納得しただけです」
顔を引きつらせる巳影の声を、紫雨は苛立ちを含んだ口調ですぐにかき消した。
「僕が不満なのは、そんな理由で黙ってたことを今悔やんでる……あなたそのものです。何を後ろめたい顔してるんですか。単に生き残る手段をとっただけ。そうでしょ」
むすっとしている紫雨にそれぞれの視線が集まり、やがて誰かが苦笑する息を落とした。不意に柔らかくなった空気の中で、清十郎が初めに口を開く。
「俺も同意見だ。言いたいことほとんど紫雨に奴に言われちまったが、別に責めようってわけじゃねえ」
そこへ、挙手する形で帆夏が発言権を求めた。
「巳影っちの中にもう一つ魂があるのは、私にもわかってた。でもだからって、それまでの君が変わるわけじゃないし。むしろ、私は打ち明けてくれてうれしかったかな」
しぃは? と肩越しに振り返った帆夏は、難しそうな顔で黙り込んでいたししろへと水を向ける。
「……ウチは、そんな楽観的にはなれへん。確かに力の出所はわかったけど、その正体や何故そいつの力から、鬼と同じ気配がしたのか。その辺はどういうことやときっちりさせたい」
ししろの目からは、疑いを持っている色はなかった。どちらかと言えば、心配をしてるような、気をかけている目であった。
その隣に座っていた切子は、ししろの言葉にこくりとうなずいた。
「私の気持ちはみんなの意見と同じだけど、ししろの言う通りでもある。何故鬼と同じなのかという疑問というか……謎は解かなければいけない。その間は、悪いけど君の力は頼れない。リスクの問題があるから、ここは意見を通したいところだよ」
淡々と言う切子の声は冷静なものだった。誰もが持っていた心にあるものを言葉にし、まとめた意見には誰も反対意見を出そうとしない。
「巳影くんの人格を疑うわけじゃないことはわかって。君自身の安全のためにも、事が分かるまで戦闘への参加を控えてほしい。『茨の会』がどうでるかわからなすぎる」
何か言いたげな巳影だったが、まっすぐにこちらの目を見て言う切子の言葉に、口の中にあったものを飲み込んでうなずいた。
そのままうつむいてしまった巳影の肩を、紫雨が乱暴にたたく。
「どうせその怪我で出たって、まともな戦力にはなりませから」
「え、この場面でとどめ刺すものなの?」
「いいから戦闘はこっちに任せて、あんたは寝ててくださいよ」
不敵とも不遜ともとれる笑みを浮かべた紫雨は、巳影の口元に指先を突き付けて言った。
「僕ら、飛八さんが思ってる以上に頼りになる奴らっすから」
「……それを言われちゃ、かなわないな……」
泣き笑いのように顔を崩して、巳影は体にずっと入っていた緊張を解くことができた。