132:残った疑問
集中し、考え、推察する。地蓮流の骨子であり基礎理念は、今や獣となった巳影の動きには反映されていなかった。
腕力頼みに腕を振るい、高熱と化した爪で相手の防御を切り裂いていく。左右前後、素早く動く足運びは、フットワークとは言えなかった。常に身を低く下げ、足を折り曲げて両腕を前に垂らし、靴底とともに手で土を蹴っては加速する。
人間からかけ離れた運動能力は、圧倒的優位を誇っていた桐谷を、少しずつ押していく。
乾ききった地面を一瞬で蒸発させる炎の爪をかいくぐり、せまっては離れる予測困難な足運びを追う。だが、桐谷が放てる十分な攻撃は地に伏せ転がり、地面を走る相手に満足いく形では届かない。
「っち……!」
思わず出た舌打ちは、桐谷が苛立ちを覚えているということが伺えた。横に動く巳影に回し蹴りを放つものの、蹴りの軌道よりもさらに低い位置まで身を落として回避した。ほぼ這いつくばる形となった巳影は、口から大量の蒸気を吐きだしながら、桐谷にめがけて斜め上に飛んだ。回し蹴りで振った足を戻すことは間に合わず、とっさに肘を突き出し巳影の額めがけて打ち込んだ。
距離もない間合いでは、完全に桐谷のカウンターになっていた。しかし、飛び掛かった巳影は手を空中で伸ばして桐谷の腕をつかみ、体を折り曲げる。勢いをそのまま足にゆだねてドロップキックのような形で足から突っ込んだ。
互いがもつれ合う形で倒れる。相手から離れようと飛び下がる巳影に、桐谷は肩口から指の先までを氷で強化した腕を、追撃で放つ。
「落ちろ!」
地蓮流追い突きの一つ、『人間無骨』は拳を氷柱の突進へと変える。下がり際の巳影はその分厚い突きをまともに食らった。飛び回っていた巳影の体が撃ち落され、地面の上を転がる。
「手応えあったぞ」
重い息をついて、腕にまとった氷の柱を解除する。仰向けに倒れた巳影の体は、ピクリとも動かなかった。だというのに、桐谷の横顔は再び緊張した面持ちへこわばらせた。
巳影の体が身をよじりながら、素早く立ち上がった。やはり人間とはかけ離れた体の使い方で、しなやかな動きは猫や虎を連想させるものだった。
桐谷は無言のまま、再び両手を氷の刃で包み込んだ。巳影は四つん這いのまま、じりじりと地面をなめるように詰め、距離を測っている。指先にともる火柱が、地面に食い込む爪の高熱に負けて、液状化していく。
互いに、度合いは違えど疲労の色が見え始めていた。
落ち着いた様子を見せる桐谷だが、白くなる息を押さえられずにいた。荒くなった呼吸を悟られまいとしたためか、ぴたりと唇を閉じて呼吸量をコントロールしていく。
地面に這う巳影の口からは、荒く押し出る蒸気が周囲を包んでいた。顔は険しいものとなり、息の乱れは桐谷よりも大きい。肩、背中まで上下させ、肺に大量の酸素を取り込もうとしていた。
「喰い飛ばす……その首、喰い飛ばす!」
巳影の口からこぼれた声は、この世のものとは思えない、底のない深淵から上ってきた怨嗟の声であった。それは巳影が……いや、人間が出せる声ではない。強くにらみつける相貌は鋭く尖り、轟々とたぎる火の色をしていた。
桐谷はいくばか落ち着いた息をついて、氷の刃を構えた。
「仕掛けてこい、害獣。その意思もろともこの地で調伏してやる」
果たして、その言葉と意味を今の巳影がくみ取れたのだろうか。しかし、最初に動いたのは巳影だった。身を低くし両手と両足で地面を走る巳影は、聞く者を射すくめるような声を放ち、桐谷へと突進していく。
桐谷は向かい来る巳影を見据え、凍り付いた両手を地面へと押すように当て、短く細く、しかし強い呼吸を言葉とともに吐きだす。
「地蓮流『亡骸掬い』!」
地面から、太く鋭い氷の棘が、高速で打ち出された。地に生えた棘は一瞬で花が咲くように伸びて広がった。その先端は鉾のような深い返しを持っており、飛び掛かろうと地面から跳躍した巳影の手足を貫き、動きを封印する。
獣のいななきが響く。悲鳴なのか、憤りなのかもわからない。だがあがけばあがくほど、氷の棘は深く巳影の体へと食い込んでいく。
さらに吠えようとしたその顎を、真下から突き上げる氷の拳が打ち抜いた。巳影の体は棘ごと空中へと飛ばされ、のけぞった姿勢のまま地面の上を滑り、倒れた。
瞬時に、周りに満ちていた熱気が掻き消え、憎悪にも似た圧力は霧散していく。桐谷はその変化に視線だけを周囲に飛ばし、中でも一番の圧力を放っていた巳影を見据え、同時に構えを解いた。手を覆っていた氷の刃も、一瞬で気体へと変わり、消える。
「く……くそっ!」
巳影は上体を何とか起こそうと、肘をついてうめいた。立ち上がれずもがく姿からは、荒々しくも流れるようなしなやかさを感じない。関節の動きすらぎこちない、油の切れたブリキの人形のようであった。
「……何かしらの制限があったのかわからないが……もう戦うことはできまい」
「……っ!」
膝をついて起き上がろとする巳影は、体中に走る痛みに顔をしかめてしまう。向かい合う桐谷もまた、強く深い疲労の色を顔に浮かべていた。
「しかしそれはこちらも同じ……口惜しいが、この場は痛み分けとする」
踵を返し、桐谷はがれきにまみれた町の向こうへと消えていく。
「に、逃げるな……っ!」
追いかけようとするものの、巳影の手足にはまだ、鋭さを持つ棘が刺さったままであった。体に力が入らず、痛みによって体力も気力も失われていく。完全に立ち上がることはできず、息を荒く乱して片膝をついた。
「くそ、もう少し戦えれば……!」
「何を馬鹿な事いってるんだ! それ以上動いちゃだめだ!」
見ていることしかできなかった神木は、すぐさまがれきの影から飛び出した。続いて清十郎と切子が続く。ししろは、しばしの間動かなかった。
「撤退しよう。これ以上は無理だ」
神木が巳影に肩を貸して立ち上がらせる。清十郎は反対側に回り、巳影を地面から引っ張り上げた。
「す、すみません……俺が勝ててたら……調査が……」
「無茶しやがるぜ、反省は怪我を治してからでもできるだろう」
清十郎はうめく巳影を引きずって、神木とともに歩き出す。肩を貸している清十郎は、ちらりとその肩越しに後ろへと目をやった。
無言のままついて歩くししろからは、敵意のようなものが放たれていた。その視線は、ぐったりとした巳影へと送られていた。




