124:アジテーターからの予定調和
駅前は騒然となっていた。バスを駆け下りた巳影たちは、特有の腐臭を感じ取り、顔をしかめる。生臭い、臓物が腐敗したかのようなぬめり気のある空気は、あの怪物……『月人』が出たことを決定づけるものだった。
人だかりができた中から、大きな体躯を持つ『月人』が倒れているのが見えた。重油のような血を垂れ流し、不快感をあおる臭いは一層強くなっていた。
「人を食う、だなんて……」
『月人』の死体の周りに、騒ぎを駆けつけてきた住民たちが集まりだした。恐怖と混乱、目の前にある怪異に誰もがパニックになりかけている。
今下手に動けば、何がきっかけで騒ぎになるかわからない。仕方なく足踏みで終わる巳影たちは、集まる人々の前で手をこまねいていた。
「まったくあのご老体は無茶をするもんだよ」
聞き覚えのある声に、体が臨戦態勢をとる。振り返りざま動こうとした巳影は、後ろに立っていた人物がもろ手を挙げていることで、動きをピタリと止めた。
「来間……さん!?」
「おや、まだ「さん付け」で呼んでくれるとは礼儀正しいね」
君たちらしいよ、と皮肉を口にした来間堂助は、挙げていた手をゆっくりと下ろす。
「何しにきよった、このコウモリ男!」
「コウモリ……」
啖呵を切ったししろに来間は苦笑する。
「でもねぎらってほしいぐらいだよ、あの『月人』を斬る羽目になったのは俺なんだから」
そういって、来間はスーツの腰に下げた日本刀の柄を指先でつつく。
「おかげで新品の刀の試し斬りになっちゃったよ。この一振りは大切にしていきたいものなんだけどね」
「……どうしてあなたが斬った」
殺気を抑えつつ、切子が静かに口を開いた。来間は嘆息を落としてから肩をすくめる。
「パフォーマンスさ。新山のご老体のね」
集まった民衆の空気が、ざわりと変わった。振り返り、倒れている『月人』の方へと目をやると、一人の屈強な体躯を持った老人が、人だかりの前に現れた。
住民たちが「新山さんだ……」「ああ、新山さま……」と、老若男女を問わず、すがるような目と声を新山に集めた。新山堅郷は一度周囲を一瞥した後、右の拳を握りしめて、声高らかに言った。
「案ずるな、土萩に生まれた民たちよ!」
一喝。力強い声と気迫に、ざわめいていた騒音がひたりと静まり返った。場の空気が一変し、誰もが新山堅郷に目を向ける。
「これは、我々人の子が真の自由と平和を勝ち取るための戦い……その狼煙である!」
新山の発する声は、びりびりと肌に響いた。叫び声というにはあまりにも強大な、聞く者の腹の底へと振動を伝える……咆哮とでも呼ぶべき声だった。
「今現在、この町の不安はみなが知っての通り。かつて民を陥れた鬼どもが徘徊を始め、化け物を生んだ。昔話ではない……この地に眠る史実が、悲劇が、今再び繰り返されようとしている!」
「……そういうことか、くそ爺」
圧倒されてしまった巳影の側で、ししろがぼそりとつぶやく。
「察しての通り、この騒ぎは自作自演さ」
巳影は肩越しに、つぶやいた来間へと振り返った。
「不安をあおり、自分たちが立つことで民意を結束させる……基本的な扇動だよ」
そのこと自体に来間はどう思っているのか、苦笑を浮かべている表情からは見て取れなかった。
新山の太い腕が、握った拳が天へと突きあげられる。
「だが、もう我々は屈しない! 新たな時代に生きる者たちよ、力ある者は立ち上がり、微弱であるというならば力を求めろ! 我々にはそれにこたえる術がある! この恐怖を、支配を破壊する力がある!」
民衆の目が変わっていく。恐れおののき、震えていた気配はすでになく、誰もが無意識に手を強く握りしめていた。
「今こそ、人間の力を見せる時! 土萩の真の主は誰か……真の民は誰か……今ここで、ここから刻んでいこうではないか!」
どよめきの声は、熱を持った喝采に変わっていく。皆が皆新山の名を叫び、震える身をこらえながらも、自らの拳を高く掲げた。
「真の民、ねえ……」
皮肉がこもった声を最後に、来間の姿は消えていた。周囲を見ても後ろ姿すら見つけられず、それどころかボルテージの上がりだした民衆の声は、ますます熱くなっていた。
「離れよう」
口々に新山の名を呼ぶ声に背を向け、切子は巳影とししろの手を引き歩き出す。
「ちょ、切子! ウチは一人でも歩ける!」
「え、ああ……ごめん」
駅前から離れ、裏路地に入った場所からでも、まだ「新山!」と叫び続ける声が響いていた。手を離した切子は、遠くに見える人だかりを苦い横顔で見ていた。
「完全にあちらのペースですね……」
妙な不安を覚えた巳影は、響いてくるコールに身震いを覚えた。これは熱気、などではない。狂気だ。
「まったくや、せこい真似しさってからに……!」
腕を組んで唸るししろは、眉間に深いしわを作っていた。いらだつ様子を隠せてはいない。
「それに、力を求めろっていうたな……あの爺。用意があると」
思い出すのは、新山邸で『月人』へと変貌した新山堅郷の姿だった。きっかけは、『茨の会』がもたらした一振りの肥後守。それを自らの体に突き刺し、新山の巨躯は更なる力を手に入れていた。
「人間を『月人』にする手段が完全に整った……そう見るべきだね」
切子の言葉に、巳影はごくりと喉を鳴らす。
「今まで雲隠れしてたんはその準備か……阻止できんかったとは、情けない話や……」
「仕方ないですよ、俺たちも目の前のことで精いっぱいでしたし……」
苛立ったり肩を落としたりと、感情が忙しいししろに、巳影は力のない声を返すしかなかった。しかし。
(……まだ、俺にも切り札があるんだ)
頭の中で、牙をむいた獣が高く吠えた。鳴りやまない新山コールを遮るように。
「ここからです。ここから……ひっくり返しましょう」
腹に力を入れ、手のひらを強く握る。ししろと切子はその言葉にうなずいた。
「そうやな……悲観するのはまだ早い。ウチらの町を好きにさせてたまるか!」
ししろの力強い言葉は、切子や巳影にも「いつも通り」の安堵と決意を固めさせた。