123:水呪の番人(後編)
風も吹かない湖の前に、一人の少年が姿を見せた。先ほど去って行った三人が下山したのを確認すると、隠れていた茂みから立ち上がり、湖の前に立つ。
「……」
少年、桐谷は水面を凝視する。よく澄み切った、透明感のある湖だ。
そこへ、足元に転がっていた小石を一つ、水面へと投げ込んでみる。小石は吸い込まれるようにして湖に沈んでいった。それに、あまり感情を表に出さない桐谷がふと訝しげな顔を作る。
今度手にしたのは、ここへ来る前に捕まえた野ネズミだった。野ネズミは乱暴につかまれた手から逃れようと、激しい抵抗を見せていた。桐谷の指は、噛まれた跡で所々出血もしている。だがそれも意に介さぬ様子で、無造作に野ネズミを湖へと放り投げる。
野ネズミは着水した後、呼吸を確保するためにもがき、何とか頭を水面から上に突き出した。その次の瞬間。
明らかにそれは、人間の手であるとわかった。もがき、酸素を求める野ネズミの口を後ろからふさぐかのように、水の中から生えるように現れた人の手が、野ネズミの顔面を覆う。
それに続くように。複数の人の手が、水面から伸びては暴れる野ネズミに絡みつき、水底へと引きずり込んでいった。
水泡が一つ水面に浮かんで、消える。湖は再び「不自然な静寂さ」を取り戻した。
「……」
つまらないものを見た様子で、桐谷は右手を握りしめて、湖に向かって構えをとる。
瞬時に周囲の温度が急激に下がり、足元の土はわずかに含んだ水分さえ凍結され、地面を割って盛り上がっていく。
「そこまでになさい、桐谷さん」
首だけを後ろへと向ける。
野鳥の類いも見なかった山に、一羽のホトトギスが木の枝にとまっていた。
ホトトギスは嘴で羽根をつつきながら、のんびりとした春の音を口にする。
「何のようだ、高橋」
「止めに来ました。この湖は、あなたが思う以上に厄介な構造でしてね」
ホトトギスは古い羽根を嘴でくわえると、羽ばたきを一つ打つ。
「水呪の番人と呼ばれています。この町が村だった頃の名残……と聞けば、危うさは想像がつきますか」
言われて、桐谷は湖へ再び視線を戻した。その湖には、複数の手が埋まっているかのように姿を見せ、手招きをしていた。どの手も青白く、腐敗が進んでいる。皮膚や筋組織が朽ち、骨だけになっているものもあった。
「私たち『茨の会』が、この第二の独立執行印に困っているのは、この水呪の番人の厄介さにあります」
「……くだらない」
ホトトギスは気の抜けた声で鳴く。まるでため息をついたかのようだった。
「あなたの実力なら、力に任せて強引に突破できるかもしれません。しかしその場合……望まぬ激しい消費と大ダメージを背負うことになるでしょう」
「……」
「そこを連中相手に突かれたくはありません。あなたは貴重な戦力ですし、それに面白くないでしょう。あなたにも、我々に協力するだけの理由があるのです……今ここで、志半ば……にしてしまうのは、あまりにもばからしい」
ホトトギスは長く鳴いた。その鳴き声は山に吸い込まれて消えていく。今度は返事とばかりに、桐谷が短く嘆息を突いた。
「わかった……引き上げる」
「ご理解いただき、感謝しますよ」
まるで朗らかに笑ったかのように、ホトトギスは間延びした鳴き声を喉で鳴らした。
□□□
「……水呪の番人、ですか」
帰りのバスでも、乗車客は巳影たち三人だけであった。一番後ろの後部座席で説明を聞いていた巳影の顔色は、あまりよくないものだった。
「うん。あそこに封じられている鬼『斬鬼』は……鬼として葬られる前に、強いカリスマを持った人物だったの」
巳影の隣に座る切子が、淡々と言葉をつぐんでいく。
「なぜなら、この土萩村の暗部を担う、大場家とは対を成す仕事人だった。鬼に引導を渡すのが大場家の血筋なら……人間の罪人を刈り取るのが、その鬼となった人物の仕事。……つまりは、新山家の指示に不満を覚える村人たちを黙らせるための、表側の抑止力」
「……」
そこまで聞いて、巳影は固唾で喉を鳴らした。額に浮かび上がった汗が、妙に不愉快に感じる。
「村は極限状態にあり、疫病や不作、飢饉に食人行為と人々のモラルの崩壊もあった中。新山の家系に加担したとはいえ、その行動は自らの意思だったの。その姿勢がある種の「まっすぐさ」を生み、彼を英雄視する村人は増えていった」
すがった、という意味もあるのだろう。何かに寄りかからなければ、理性すら保てない情勢の中で、その後ろ姿にカリスマ性が生まれていく……。想像するだけで、胸が焼けるような不快感を覚えた。
「その『斬鬼』が処分され、あの湖の底へ封印されたあと……彼を追って、一部の村人たちが飛び込んだの……今その湖は、鬼を慕い守るための魂魄で満ちている……封印管理者出ない限り、触れることは許されてないんだ」
その後、後追い自殺を行った村人たちの遺体は見つかっていない。それどころか、湖はますます透明度を増して澄み渡り、水面に波紋すら描くことはなくなった。
「それが番人の正体……」
教えられた、湖に棲む存在を指す言葉に、背筋を冷たくするものを感じた。なるほど、そんな状態ならば『茨の会』も易々と手が出ないわけだと、巳影は不快感を残す納得を覚える。
「それならば、絶対にその『斬鬼』を復活させるわけにはいきませんね……この現状の町に対して、どんな影響を及ぼすかわからない」
バスはいつの間にかさびれた風景を抜け、町中へと入っていた。時折止まるバス停で乗客を拾い、バスは町中央にある駅へと向かっていった。
「今日はここで解散した方がええんちゃうか。……あんたも正直疲れたやろ」
ひとつ前の座席に座っていたししろが振り返り巳影へと言う。
「そうですね……改めて考えなきゃいけないこともありますし、それに……」
巳影の言葉が、急ブレーキを踏んで揺れた車体につぶされた。前につんのめるほどのバスは、他に乗った乗客たちからも悲鳴を引き起こす。
よく見ると、バスの目の前に人が飛び出している。運転手は何事かと慌ててドアを開くが、
「た、助けてくれぇ!」
バスの中に這うようにして入ってきたのは、初老の男性だった。ただ事ではない様子は、それ以外の要因でもしれた。その男性は頭から血を流し、片腕がおかしな方向へとゆがんでいる。
「で、出たんだ! 目の前で見た!」
加えてその男性は混乱の最中にいるようだった。ししろが素早く立ちあがり、男性に駆け寄る。
「どないしたんや、何事や!」
不穏な空気が膨らむバスの車内に、男性の悲鳴が響き渡った。
「妻が食われた……げ、『月人』が出たんだ!」