122:水呪の番人(前編)
変色した髪の色は、黒染めのスプレーも白髪染めもなぜか効果を出さず、相変わらず前髪の一部を赤く錆びた色にしていた。巳影はこのまま登校してもいいものか、とひとまず事情を話すために学校へ着くと、職員室に向かった。
「やあ、飛八くん! 間に合ってよかったぁ……!」
迎えてくれた神木は安堵した様子で言う。間に合う? きょとんとしている巳影に神木は笑顔のまま告げた。
「今日から中間テストだから、追試の心配はいらないね!」
ゴールデンウイーク中に渡されたプリントの存在などすっかり忘れていた巳影の成績は、目を覆うものとなった。
「……」
「……」
オカルト研、部室。ちゃぶ台について魂を口から吐き出している巳影は、同じく魂を口から漏らしているししろへうつろな目を向けた。
「……ししろさん、テストの首尾は……」
「……満点とったように見えるか……」
二人そろって特大のため息をつく。
「ま、まあまあ。テスト期間中特に何も起こらなかったし、それはそれで次の対策を練って行こうよ」
お茶を運んできた切子がなだめるように言う。巳影とししろは首を重たそうに持ち上げ、お茶をすすった。今日は梅昆布茶だった。梅の酸っぱさが口の中に染みる。
「確かに、腐るのはこの辺にしとこか……幸か不幸か『茨の会』の連中は今のところ、それらしい動きを見せとらん」
背筋を伸ばしたししろは、切子の淹れてくれたお茶を一口含み、吐息を漏らす。
「連中の次の狙いは十中八九……第二の独立執行印である『宝剣』や」
「そうだね、封印管理者である私が狙われることになるよ。注意してるけど、怪しい雰囲気はまだないかな」
切子も湯呑を手にしてうなずいた。そこへ巳影は「宝剣……とは?」とつぶやく。
「鬼を封じている、儀式用の剣があるんだ。その剣自体が独立執行印の鍵になってて、抜くと封印も解けてしまう仕組みになってるの」
「抜くとって……どこかに刺さってるんですか?」
切子はちらり、とししろへ視線をよこした。ししろは「そうやな……」とこぼした後、
「言葉で説明するより、見た方が早いやろう。行こか、そんなに遠くやないし」
と言って立ち上がる。気軽にアクセスできる場所なのだろうか。巳影は特に考えることもなくうなずいて、湯呑に残ったお茶を飲み干した。
学校を出てバスで町の北部へと進んでいく。町中を抜けると田んぼが広がっていき、民家も少なくなってきた。
ししろと切子につられて下りた場所は、山道近くの駅だった。この町をぐるりと囲むようにそびえる山は決して大きいとは言えない。見える山道もきちんと整備されたものではないように感じた。
雰囲気は、帆夏が構える家に続く道と似ていた。同時に『暗鬼』を封じていた古寺『天静院』に伸びていた道にも近い雰囲気を覚える。似たような地形と景色だからだろうか。
登っていく山道はでこぼことしており、足場が悪い。道を囲む草木は鬱蒼と茂り、地面に濃い影を落としていた。
やや急な斜面を登っていくうちに、ふと肌に湿り気を感じた。空気はさらさらと流れていき、乾燥していた喉にもうるおいが戻ってくる。
「ついたで」
先頭を歩くししろが足を止めた先には、澄んだ湖と、清流が流れる小さな滝が姿を見せた。
「こんなところに湖畔ですか……」
清涼感が漂う光景に、巳影はふと違和感を覚える。きれいな水辺だというのに、山の生き物の姿が見えない。今は自分たちがいるせいで、隠れているのだろうか。
そういえば、登る途中一度も野鳥の声を聞かなかったことに気づく。
「湖には近づかないでね、危ないから」
周囲の様子をうかがっていた巳影の隣に立ち、切子が言う。その切子はそっと湖の淵にしゃがみ込み、懐から取り出した一振りのナイフを水の中に突き立てた。
ず……と、靴底を揺らす振動が巳影を襲った。地震、ではない。目の前の湖が波を作り、泡立ち、中央に大きな渦を作り出していた。特に何も言わない切子やししろがいなければ、天変地異が起こったと、パニックになっていたかもしれない。
渦は水面の波を引きずり込む世に回り、湖の水位はどんどんと下がっていった。
「ど、どういう仕組みなんです……?」
「そこは企業秘密。巳影くんの安全を守るためにもね」
切子がくすりと笑う。知れば危ない事情でもあるのだろうか……巳影はそれ以上聞くことができなかった。
やがて、水辺からは数メートルはあろう湖の底が姿を見せる。
「あれは……」
湖の底の中央。一部地面が盛り上がったような、ドーム状のものが目についた。それは明らかに人の手が入った人工物だとわかる。同時に、『暗鬼』が封じられていた柱と似た感触を肌に覚えた。漂ってくる空気は、自然と体を警戒させる。
そのドームには、古びた一本の長い棒状の異物が突き刺さっている。
「あれが『宝剣』だよ」
どれだけ水の底にあったのかはわからないが、柄や刀身はひどく錆びつき、刃こぼれもひどかった。装飾が施されていたような名残があるものの、宝という文字からは程遠いものだった。
「あれが……か」
巳影は肩透かしを食らったような気分になる。湖の水が沈み現れたものが、ボロボロに朽ちかけているものだとは。鬼を封じているとのことだが、その鬼はボロボロの宝剣が突き刺さるドーム状のものにでも入っているのだろうか。底をのぞき込もうとした時、切子に肩をとんとたたかれる。
「下がって。そろそろ湖の水が元に戻るから」
滝から零れ落ちる水が、濁流のごとく押し寄せて、あっという間に『宝剣』とドーム状の膨らみを水面の奥へと閉じ込めた。水は澄んでいるものの、水面に反射する陽の光による屈折のためか、すっかり水没した湖の底は見通すことができない。
「あ、あの……よかったんですか? 俺が見られるとはいえ、こんな大装置を動かしちゃって」
あのボロボロの剣を抜けば、鬼が封印から解かれるとすれば、その瞬間を誰かに……『茨の会』に狙われていたら、完全にアウトなのではないだろうか。
「大丈夫だよ。適度に水を入れ替えなければいけないから、丁度いい機会だったよ」
あっけらかんという切子の言葉は、魚を飼う水槽のような扱いだった。なぜか、危機感がない。
「……魚……」
自分の思考がふと違和感を拾った。そういえば、水がすべて抜かれた後には、どこにも魚の類いを見ることはなかった。まさか、抜かれた水とともに流れて行った……?
「この湖に生き物はいないよ」
巳影の疑問が伝わったかのように、切子が後ろから言う。
「この湖の水そのものが、独立執行印を守る装置だからね。ただの水じゃないんだ」
「ただの水じゃない……?」
首をかしげるものの、それ以上は口外できないものと説明され、巳影は消化不良のまま山を下りることとなった。