121:腐食街道
「獣は現れたら、迷わず『宝剣』を抜くんや」
そう師に言われた切子は首を傾げた。獣……確かにここは田舎町だが、イノシシでもでるのだろうか。それにしたって……『宝剣』を抜け、とはひどく物騒な言葉ではある。
「違う違う……まあ、一口じゃ説明できひんもんやけど……お前なら、肌で感じるはずや。その獣っちゅうんが、どんなんかはな」
しかし、この『宝剣』は封印……独立執行印の鍵なのでは。抜けば、中に封じられている鬼が現れる。
「背に腹は代えられんのや。鬼か、獣か……どっちも存在が許されんほどの害悪や。せやけど、取るべき選択肢の中に『宝剣』を抜くというものを、頭に入れとってほしい」
妙な話だった。土萩町に住む、それも裏の側面を知る者の発言とは考えられない。だがこの人が何の考えもなく、こんな発言をするとも思えない。
会話にしてわずか一分もないもの。その真意がわかる前に、師は病気でこの世を去ってしまう。
武術の師範でもあり、先代の封印管理者であった彼は後のことを切子に託した。
五月も半分を過ぎた夕暮れ時、その男の墓前の前で切子は手を合わせながら、そんなことを思い返していた。
鬼。かつて土萩村を襲った危機を引き起こしたとされ、人の尊厳を取り上げ罪を押し付け、災害とともに封じられた、ある意味人柱とも呼べる……元は何者でもないただの村人たち。
今この町は、そんな彼らの恨みが暴れまわるように、深刻な直面に立たされていた。
「柊さん」
帰り際、この霊園の管理者である初老の男性から声がかけられた。切子はどこか暗い顔をしている男性を訝しく思い、なにかと尋ねてみる。
「日も暮れてきたから、早くお帰りなさい。昨日もまた出たって聞いたからね。山の方だよ」
「……」
「はぁ、おっかないねえ。供養も入念に行っているというのにね……怖いよね……『月人』は」
この田舎町は今、不条理な悪意を当たり前のものとして受け入れていた。
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「おそらく『暗鬼』の封印が解けたことによる影響だね。噂話が現実のものとなり、現実世界の物理法則すら狂っていく。……『月人』か」
町中の喫茶店で落ち合った神木は、氷だけになったグラスを傾けて深いため息をついた。
人を食らう鬼を、さらに食らう……人間ではいられなくなった異形。巨大な口と歯を持ち、あらゆる攻撃を学習し、種族単位でその情報を共有し、即座にアップデートを可能にする……考えるだけで頭痛が起きそうな相手である。
問題が進展したと言えるのは、その異形に正式な名前が付与されたことだろうかと、切子は皮肉なことを思ってしまった。
「今のところ、誰かが食われただなんて話はない。けど……時間の問題だと思う。大人が不安がらせることを言うのは申し訳ないが、事実だ」
「先生がそう一人で背負い込んでしまっても、意味はありません。吐きだせるなら吐きだしましょう」
切子の冷静な言葉に、神木はしばし間をおいて……言いたいことをぐっと喉の奥に押し込んでから……「そうだね」と苦笑を作って言った。
「もう町の人たちの口にまでのぼっているんです。気にしても仕方ありません」
言ってから切子は、少し酷な言葉だったかと考えた。しかし、ここで目をそらしても意味はないのだ。そらそうとしても……視界に入るような世界になりつつある。
「みんな、当たり前のようにアレを……『月人』という存在を認知しているからね。意識が書き換えられているんだ、少しずつ……」
言う神木は自嘲するような笑い方で肩を落とした。しかし、まだ光るものが残る目で、神木は静かにつぶやいた。
「できることは……これ以上独立執行印を解放させないことだ。……『茨の会』を絶対にとめないと」
その言葉に切子は無言でうなずいた。
「残る独立執行印は二つ。君の守る『宝剣』と、最後の……。なんでも言ってくれ。僕だけでなく、誰もができる限りのことをやる」
皆、気持ちは同じはずだとこぼした神木の手は、強く握られかすかにふるえていた。
喫茶店を出て、切子は近所にあるバス停で一人バスを待つ。もうすっかり空は暗くなってしまった。バス停にはほかに誰も人はおらず、切子はスマートフォンを取り出そうとして、弾かれたように山へと続いていく坂道へと振り返った。
設置された街灯は少なく、夜道であり山道になる坂の奥は、べったりと闇が張り付いていて見通すこともできない。その中から感じたものに、切子は反射的にコートの中に装備している短剣を抜いて両手に持ち、いつでも動けるよう体をリラックスさせる。
そう、体はこわばっていた。身構え、固くなった肉体に呼びかけなくてはならないほどのものを感じてしまった。
「あれ? 切子さんじゃないですか」
薄い闇の中から、聞き覚えのある声がした。
「降りる駅間違えちゃって、峠から歩いてここまで来ましたよ」
苦笑をもって現れた人影は、よく見知った者だった。だというのに、体はまだ警戒心を解いていなかった。
「……ナイフなんか出して、なにかあったんですか」
「……君は……飛八巳影くん、だよね」
薄明りの街灯が、影に塗られた輪郭をあらわにした。そこには小柄で華奢な少年が立っていた。
「そうですけど、どうしたんです?」
「……」
「ああ、この髪ですか?」
巳影は赤みがかかった前髪の一部を指でつまみ、眉を寄せる。
「なんでかこんな色になってしまって……やっぱり学校に行く前に黒染めした方がいいですよね」
手前まで来た少年は、カラカラと笑い、かわいらしい顔をこちらに向けている。
切子は小さく首を横に振った後、ナイフをしまい込んだ。
「おかえりなさい、巳影くん。その様子だと、収穫はあったみたいだね」
それに屈託なくうなずいた巳影は、いつもの見慣れた少年だった。
気のせい、だろう。そういうことにして、これ以上考えるのはやめた。
宵闇の奥から感じた気配が、まるで牙をむき出しにする野獣のようなものに感じたのは……ただ自分が意識しすぎていただけである、と。