120:悪だくみは尽きず
「それ」を地球上に存在する既存のもので言えば……カゲロウのようなものだった。
大きく膨れ上がった胴体から、長く伸びた足は節くれだち、背に生えた羽根のようなものはとても薄く、透けて見える。その大きさは、昆虫のカゲロウとは比較にならないほど大きく、人間のサイズをはるかに超えているものだった。
だが、その頭部はどう見ても、既視感がある形をしていた。
大きく開かれ、耳元まで避けた口。前歯は膨張し顔面の面積の半分を占めている。目に当たる部分はどこだか見当たらない。
「お……大口お化け……!」
いち早く我に返った紫雨の漏らした言葉に、清十郎は麻痺しかけていた体に喝を入れ、両手に握る太刀を絞るように強く握った。
「ふむ……」
戦慄する清十郎たちと相反して、「それ」を見上げている天宮一式はどこか不満げな顔をしていた。
浮遊する「それ」の羽ばたきが、少しずつ弱くなり始めた。ずんぐりとした胴体の節々からは、白い液体がまるで出血したかのように流れている。ねばつくそれは糸を引いて地面へと落ち、コンクリートの表面を蒸発させていた。
巨大な口から、とてもこの世のものではない声らしきものが飛び出した。悲鳴のような、いななきのような。耳に突き刺さる、言語化しがたい鳴き声は晴天の上空に吸い込まれていった。
カゲロウの体から、羽根が崩れて落ちていく。付け根はまるで腐食したような色をしており、ねばついた液体が糸を引く。
鳴き声は、断末魔だったのか。羽根が次々と抜け落ち、その巨体を横たえ、か細い鳴き声とともに沈み込んだ。
「低い完成度だったな……ロケーションは最高のものだというのに」
未だ長い足は痙攣して動いているものの、もう「それ」が力尽きたらしいことは、清十郎にも紫雨にも見て取れた。
「やはり土萩の地から離れすぎると無理があるか。ふむ、帰って皆と相談だな」
顔色一つ変えないでいる天宮一式は、崩れて輪郭をなくし、白濁した液体に変わっていく「それ」に背を向け、軽い足取りで去って行った。
一方。清十郎と紫雨は立っているのも精一杯で、ひどい腐臭を放ちだした「それ」の残骸が蒸発するように消えていくまで、警戒心を解くことができなかった。
「……な、んなんすか……あれ……む、虫?」
「俺が聞きてえ……ジュラ紀にでもタイムスリップした気分だぜ」
遥か太古の地球には、人間の大きさを超える昆虫類も多く存在したと知識では知っていたが、いざそのような巨体を目にすると、立ちすくんで動くこともままならなかった。
蛇に睨まれた蛙のように……「それ」もまた、食物連鎖の上に立つ存在だったのかもしれない。
ようやく息をつくことができたのは、目の前で溶けていく異形が完全に消滅した後だった。ただ周囲にはひどい悪臭が立ち込めており、のんびりと休憩することは難しかった。
「くそ、撤退するしかねえな……収穫どころか、謎がまた増えた」
口元を手で覆い、清十郎は舌打ちする。紫雨もハンカチで口と鼻をおさえ、早く出ましょうと涙目になって促した。
天宮一式を追いかけ、問いただしたい衝動はあるものの、そこまで動く気力がごっそりと削られている。清十郎たちはよたよたとした足取りで、バリケードの外へと逃げ出した。
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「おや、満足いく結果とはならなかったようですね」
仁王像が見下ろし睥睨する仏間で、高橋京極は戻ってきた天宮一式の様子を見て言う。言葉通り、天宮一式は不満の胸中を顔に出して「まあな」と短く答えた。
「残る『独立執行印』は二つ……フライングは可能かと、淡く期待したのだが……」
「まあ、その二つが強力な封印ですからねぇ……今までのものとはまた、レベルが違ってきます」
「どう崩す。第二の封印管理者はあの柊切子だ」
畳に座り込む天宮一式を前に、高橋京極はしばし視線を天井へと泳がせ、
「案外、真正面から行けば、何とかなるかもしれませんね」
「ほう。その心は」
「追い込むんです。第二の封印の中身を、使わざるを得ないという状況に。あれは封印の楔でもあり、切り札そのものです。追いつめられれば……逆転を狙って自ら封印を解くでしょう」
高橋の言葉に、天宮はすぐに返事を返さなかった。しばし高橋の提案を頭の中でテイスティングするように反芻し、腕を組んで唸る。
「もっと慎重にやりますか?」
「いや、お前の考えは最もなんだ。だが俺自身の問題でな……気が進まないというか、もやもやするというか」
煮え切らない様子の天宮を見て、高橋は苦笑を浮かべた。
「あなたでも思い悩むことがあるんですね」
「他人事だと思いよって……俺はあの「封印の中身」に、手ひどくやられたんだ。苦手意識ぐらい覚えるものだ」
拗ねた様子で口をとがらせる天宮に、再び高橋は苦笑した。
「面倒なら、俺が出張ってもいい」
仁王像のすぐ隣。組んでいた腕をほどいて現れた少年に、天宮は「助かるぞ、桐谷」と少年の名を呼んだ。
「ただし。その一件は俺の仕切りでやらせてもらう」
「ほう、頼もしい言葉だな桐谷。秘策でもあるのか?」
「特にない。が、興味はある」
桐谷の言葉が、わずかな静寂を呼んだ。
「安心しろ、封印は解かせる。確実にな」
「なるほど……目当ては解かれた封印そのものか」
天宮の言葉に、桐谷は素直にうなずいた。
「土萩の地に伝わる『宝剣』とやら……どれほどのものか、試してみたい」
「戦好きよの。だが俺はその趣、嫌いではない」
天宮が笑うが、桐谷はそれに何も答えず背を向ける。その姿は仁王像の影に溶け込むと足音すらも消えていった。
「血気盛んも、あそこまで行けばむしろ心地の良いものだな」
「強者との出会い……それが我々の一致している利害ですからね」
くつくつと喉の奥で笑い、天宮は赤銅色の髪を無造作にかきあげた。
「いくらでも提供してやるとも。お前が望む以上のものもな、桐谷」




