118:片道切符の魔道
「……あれ?」
洗面台の鏡に映った自分の顔を見て、巳影はきょとんと眼を丸くした。
昨日あれだけ殴られたのだから、ひどい顔になっているだろうと思いつつ、顔を洗いに洗面台に向かったら。
「……茶色というか……赤色?」
眉にかかる前髪の一部が、明るい色に変色していた。明るい光に照らせば、まるでワインのような赤い色をしている。それも赤色が若干錆びたような濁り具合をしている。
顔には細かい傷が残っているが、特に気になるようなものではなかった。むしろ今は、メッシュでも入れたかのような髪の毛の変色が気になった。
恐る恐る触ってみる。しかし、手触りに変わったものはなく、引っ張っても普通に頭皮が痛いだけであった。
「……まあ、いいか」
特に害はないだろう。そう判断して、傷に染みる水で顔を洗った。
比嘉は本堂の中央で結跏趺坐を組み、瞑想のため瞳を閉じていた。まぶたを下ろしたままで、口を開く。
「出るのか」
本堂の入り口に立つ巳影へと声を投げる。
「はい。収穫はありました。これ以上、師匠にもご迷惑をかけるわけにはいきませんから」
「……」
「数日の間でしたが、また俺のわがままに付き合ってくれて、ありがとうございました。では」
巳影は一礼すると、戸を閉め石畳の上を歩いていった。その足音が遠のき、聞こえなくなるまで、比嘉は目を閉じていた。
「……久しぶりの無力感だな」
誰ともなしに、比嘉は小さくつぶやいた。開かれた目はくすんだ色をしており、ついた息はため息になっていた。
「収穫、か」
そっと、肩口にまかれた包帯へと触れる。切り裂かれた肉体にはもう、毒素は残っていない。焼灼術、と言っていいものか。触れられただけで、痛みや呪詛は焼かれて消滅した。
飛八巳影……その姿をした、炎の魔獣に。
気が付けば、比嘉は拳を畳へとたたきつけていた。畳は簡単にへこみ、よじれて繊維を散らす。
「星を撃つというのか……あの子が」
食いしばった奥歯から洩れる声は、怨嗟に近いものだった。
□□□
来た時同様に長距離バスに揺られて、巳影は山深い集落が遠のいていくのを、窓の外に見ていた。明日の早朝には、土萩町へと続く町へと着く。
『感慨深いか』
頭の中の獣が口を開いた。
「そういうわけでもないよ。確かに、育った故郷の一つみたいなものだけど」
バスの乗客は、巳影一人だった。声を潜めるわけでもなく、獣へと言葉を返した。
「感傷に浸っているわけじゃないんだ。ただ師匠にもう一度会えたことはうれしかったし、組手での発見もいくつかあったし」
それに、と変色した前髪をかきあげ、小さく笑う。
「ベタニア。ありがとうな」
獣は何も返さない。ただ黙って、佇んでいる。すぐそばで。
「これで俺は、人間をやめても勝つことができる」
獣は何も返さない。ただ黙って、その口元をつり上げたような気配がした。人間の仕草で例えるなら、まるでほくそ笑んだような気配だった。
バスが重いエンジンをうならせ、坂道を上る。巳影はうとうととし始めた頭を休めるため、目を閉じて仮眠の態勢をとった。程よく揺れる振動が、まるでゆりかごのように心地いい。寝息を静かに立てるまで、時間はあまりかからなかった。
□□□
「よお」と突然現れた清十郎に引っ張られ、紫雨は訳も分からず小一時間ほどかかる電車の旅を強いられた。下りた駅はさびれた田舎町で、自分が育った土萩町よりも閑散としている。
「なんなんです、一体……僕だって暇じゃないんですけど」
口をとがらせ不満を口にする紫雨に、清十郎はスマートフォンを操作しながら「すまんすまん」と気のない返事を返した。それがより紫雨をむくれさせる。
「俺はあまり霊感の類いに疎くてな。レーダー替わりのお前に来てほしかったんだよ」
「……なんすか、心霊スポットにでも行くんですか?」
「似たようなものだな」
紫雨は露骨に嫌そうな顔をした。だが清十郎は気にもせず、スマートフォンで開いた地図アプリを開いて「ここに向かう」と画面を紫雨へ向けた。
「ここ、何があるんです?」
「あかね団地……お前も聞いたことあるだろう」
紫雨の不満顔は次に、訝し気に眉を寄せるものに変わった。
「大きな火災で住民のほとんどが死亡した……未だ原因不明の災害地だ」
「……心霊スポットどころか、禁足地じゃないですか」
火災が起きた原因は謎のまま、推測やウワサだけが飛び交い、団地の焼け跡はなぜか未だ手を付けられず、残ったままだという。そこをぐるりと囲むように、簡易なバリケードまで設置されて、近隣には何の説明もないまま近づくことも許されていない。
しかし『裏』の事情を知ったものならば、別の理由で遠ざかっている地でもあった。立ち入ることすら許されない理由は、ただ危険だからというわけではない。
「あいつら……『茨の会』っていうか、天宮一式は旧日本軍から政府につながりを持っていた。ここに近寄らないよう圧力を敷いた上にあるものが、そのつながってる連中と同じなら……何か『茨の会』につながるヒントがあるんじゃねえか、って思ってな」
敷かれた圧力は、あの新山堅郷にまで及んでいた。新山が従わざるを得ないほどのものが、一体何のか……命が惜しいものなら、追及もしないだろう。ただ黙って恐れて見ないふりをする。それが当たり前の反応であった。
「少しでも情報が欲しい。あのバケモンども相手に、無策じゃ挑めねえ」
「……あの「大口お化け」に、ですか」
土萩村の真の住民たち。紫雨は思い出すだけでも寒気を覚える。
「今は怪しいところをかたっぱしから調べるしかないんだ。手を貸してくれ」
「現地に連れてきておいて、今さら断りはしませんよ」
むくれた顔のままで、紫雨は渋々うなずいた。